私のプロフィール 失敗か、それとも、経験か?

 以前私のブログ記事で紹介しましたように、私の卒業した高校は、別名『足立体育学校』と非公式に呼ばれていました。10代の私が学校で学んでいた頃の日本は、高度経済成長期を経験していて、今とは少し違っていました。当校では、学園紛争を経験したことから、毎日着ていく制服が自由であったり、生徒の自治と自由が過度に尊重されていました。そんなふうに自由な割には、個人的に上手くいかないことが多くて、戸惑う生徒も多かったと思います。私なんかもその一人だったと言えます。
 例えば、最近深刻なストーカー事件があったりしますが、私などは相手に告りに行って、相手が困るとそのおかあさんが出てきて「そういうの。やめてくれません。」と言われたりしました。それは当時の私にとって、恥ずかしい経験ではありましたが、今になってみると、私自身の感情や考え方や言動が常軌を逸していただけのことだったのです。自由のはき違えというものを若い頃に経験して、精神的に免疫のある大人になれたのかもしれません。若い頃というのは、そうした間違いはあるものです。それが小さな間違いで済んでしまうことが重要なのです。
 ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』という短編小説がありますが、中学生の国語の教科書でそれを読みました。国語の授業中にそんなことは一度も考えたことはなかったのですが、大人になってみると、あの小説の主人公の立場と同じことを経験したのだと思うことが私にはあります。
 そうした自由な日常があった、その反面、中三や高三で受験が近づくと、私たちの年代は、進学するために必ず受験戦争に巻き込まれました。その受験戦争に勝つためには、何でも覚えなさい、記憶しなさい、という知識の詰め込み主義がまかり通っていました。よって、当時の学校の勉強ほど、つまらないものは他にありませんでした。下手に「あいつは勉強ができる。」と伝わると、変人扱いされることが多かったと思います。
 私は東京在住のクセに、予備校通いをしたことがありませんでした。模擬試験で二度ほどY予備校に行ったことがあるだけでした。ですから、私が現役でH大学に合格したことを高三の担任の先生が発表すると、クラス全員が驚きで沈黙してしまったことを今でも記憶しています。私のクラスメートは誰でも、「予備校に行けるくらい親に経済力がなかったら、有名大学(H大学はとりあえず東京六大学野球で有名でした。)なんか合格するわけがないさ。黒田なんか、予備校にも通ってないし、合格しないで当り前さ。」くらいにウワサしていたようです。
 その代わりに私は、高二の冬あたりから一年間、S研ゼミの通信添削で、数学の証明問題と英文解釈にチャレンジしていました。英文解釈はそれほど赤ペン修正は入っていませんでしたが、数学の証明問題は、毎回答案が返信されてくるたびに、紙全体が真っ赤になっていました。ウワサによると(あくまでもウワサでしたが)、どこかの大学の学生さんがアルバイトで、その添削を受け持ってくれているとのことでした。「学生のアルバイトじゃ仕方がない」と当時の私は思いましたが、今になって考えてみると、「それだけフレッシュな頭で赤ペン修正を真剣にいれてくれたのだな(S研ゼミだからシンケンなのは当り前なのかもしれないけど)」と感動するところ、ひとしきりと言えます。私は、数学の証明問題の答案が真っ赤になって返ってくることに、さしたる恐怖を感じることなく一年間その通信添削を続けていました。S研ゼミでは「継続は力なり」をモットーの一つに掲げていました。私は、あれこれ周りに目移りせずに、それに従っていただけのことでした。
 実は、私は、H大学の受験に合格する前に、M大学にも受かっていました。しかし、当時M大学は入学辞退のためには30万円を払う仕組みになっていました。そこで、私は、熔接屋の父にどうするべきかを相談しました。ご存知のようにM大学は美術や音楽などの(人文系もあります)芸術系の大学です。私の父にとっては、芸術よりも、東京六大学のほうが知名度があると思われたようです。「国男が一年間、予備校に行ったと思えば30万円くらいかかったに違いない。」と言って、すんなりM大学の入学辞退金を出してくださりました。
 なお、私は自宅から大学へ通っていたので、親のすねをかじらせてもらってはいたものの、それほど親にお金の負担をかけていなかったと思います。年間でH大学の各学部学科の授業料をいくら払ったらよいかという一覧表を、私は親に見せたことがあります。理系の授業料は、文系の授業料よりも高く、文系でも法学・経営・経済学部のほうが文学部よりも高かったと思います。中でも、英文テキスト以外に、研究に必要な機材を必要としない英文学科は、一番安い授業料だったことを私は記憶しています。しかも、H大学は、東京六大学の中で当時一番授業料が安い、とウワサされていました。そのウワサを信じるならば、私は東京六大学で当時、最も授業料のかからない学部学科に在籍していたわけです。
 私の親の思惑がどこにあったのか、今となってはよくわかりません。しかし、私としては、数学の線形計画ではありませんが、最小のコストで最適な解を求めようと考えていました。ですから、あの頃の学校の授業料が比較的に安かったことをよかったと感じています。
 ここまで、だいぶ表向きな話をしてしまいました。次回は、もっと根本的な話をしてみたいと思います。すなわち、『学問』とは一体何なのか。それをどうやったら「学問をした。」ということになるのか。私はいつ、どこで、それを経験したのか。私にとっては、そうしたことはいずれも予期せぬものであったこと、「ああ、そうだったのか!」と今になって納得するようなことでもあったことを、(本当は、それほど大したことではなかったかもしれませんが)次回は述べてみたいと思います。