私のプロフィール 今でも役に立っていること

 ここ二週間ほど、私は公私共に忙しくて、過労のために両足を痛めてしまいました。ここ二,三日は、昼間は春とは思えないほどの異常乾燥が続いています。私の場合、私的とは言っても、現場の農作業が第一なので、ノドも乾いて、さすがにこの天候は体にこたえました。
 というわけで、一休みということで、今回のテーマを書いてみることにしました。以前、『私にとって、やっててよかった勉強とは?』というタイトルでブログ記事を書きました。それとは、相反する内容になってしまうかもしれません。学校で学んだことの中には、どう見ても実学(じつがく)に思われるものがありました。例えば、小学校高学年で、私は家庭科の授業で、料理や裁縫を学びました。
 あの頃の日本社会で、男子がそのようなことを学ぶことは、変だったかもしれません。しかし、食べ物を調理することや、栄養のバランスを考えて食べることは、今になってみると、あの頃に学んだその知識や方法は当時のままではないものの、私なりに改良を加えて、毎日役に立っています。買い物の経験や知識とあいまって、それらの知識と方法は決して無駄にはなっていません。栄養三要素+微量の無機質をとるためには、安い予算内で何をどう買って、調理して食べたらいいか。とか、どれだけの分量のタンパク質を、食事ごとで摂ったらよいか。ということを考えるのは、女性の仕事というよりも、私個人のこととして、かなり重要な関心ごとの一つであると言えます。
 あの福沢諭吉さんは、その『学問のすすめ』という著作の中で、「実学」という言葉に「サイエンス」というルビをふっていらっしゃいます。私にとって役に立っていることは「サイエンス」とは言わないまでも、生活の中に密着した知識や技術の方法は、他人が想像する以上に役に立っていると思います。たまたま今日テレビを見ていたら、あのY教授が「みんなの手本にならなければいけない。」とおっしゃられていました。私自身などは手本にさえなれないし、ならなくてもいいかな、と気楽に思いました。
 裁縫に関しては、私は未だに、裁縫箱を手元に置いています。私の場合、二十年近くサラリーマンをやっていました。会社では、スーツとワイシャツ姿でした。そのため、ワイシャツのボタンが取れてしまうことが、しばしばありました。最初は、母が気がついて、付けてくれましたが、そのうち私自身でやることが多くなりました。ボタンが取れたことに気がつくと、手元に裁縫箱があるので、私がそれを付けたほうが簡単だということに気がつきました。
 その裁縫箱というのは、実は小学生の頃に家庭科で買わされたものでした。四十年以上も、私はそれを持っていることになります。この四十年間に世の中は変わってしまい、衣服などの布地がほつれたり、破けたりすると、(大量生産されている)新しい衣類などをお金で買ったほうが手間がかからずに良い、ということに一般的になってしまいました。裁縫の手作業などというものは、一般的には不要で、貧乏人のすることにように言われることもあります。ボタン付けでさえ、電動ミシンでできてしまう世の中です。衣類や布地製品を装飾する目的や、その趣味(ホビー)以外には、使われない技術になってしまったのかもしれません。もしかして、ボタンもつけられない女性がいるのかもしれません。
 そんなことは、私には、どうでもよいことです。利用価値が無くなって、ポイと捨てられる衣類や布地製品が減れば、余計なゴミも減るし、それを買い替えるためのお金も節約できます。
 裁縫箱には、いろんな道具が詰まっています。洋ばさみは、布地を裁つ(切る)ためのもので、和ばさみは、糸を切るためのものです。確かそう私は、小学生の頃に学んだはずです。針刺し(ピン・クッション)には、女性の髪の毛が入っていると学びました。今でも気持ちが悪いので、その中身を見ないでいます。四十年以上も前に装飾の縫い付け(ステッチ)を実習した、その布地などが入っていたりします。実際には一度も使っていない道具なんかも入っていますが、糸通しとか、白や黒の縫い糸とか、縫い針などは、後から追加してそのポリプロピレン製の裁縫箱に詰め込んでありました。
 月並みな意見かもしれませんが、古い物を大事にするのもいいかな、と思いました。