テレビドラマ『逃げ恥』にまつわる話

 私が今回の内容のブログ記事を書こうとしたことには、それなりのきっかけがありました。年が明けて、その午前3時半から1時間半ほど、『久保みねヒャダ明けましてこじらせナイト寿スペシャル』という番組がフジテレビで放送されていました。その番組を録画しておいて、日中に観たのですが、夜中の番組は相変わらず面白いことを話題にしているな、と思いました。
 私が、この番組を録画してまで見逃すまいとしていたことには、それなりの理由がありました。昨年末に話題になった『逃げるは恥だが役に立つ』(略して『逃げ恥』)というTBSドラマのことについて、番組中で言及するということを、事前に簡単な番組ガイドで知っていたためでした。
 テレビの画面右下のテロップには、「原作漫画家とお友達/久保ミツロウが語る/大ヒット『逃げ恥』」とありました。その番組で真ん中に映っている女性が、切々と『逃げ恥』の最終回を観た後の感想や意見を語っていました。「(略)でも、あれを観た時に、最終回もよかったなと思って、終わって、ふと部屋を見ると、『あれっ。私一人だ。』って。『これ観て、勉強して、対話の中で絆を作っていくべきだ。』みたいな、いろいろとこう学ぶこといっぱいあったけど、なんも自分の人生にフィードバックできないじゃん、って。」それを聞いていたヒャダインさんに、「この話、やめません?」と言われていました。だんだん暗くなる話だったのですが、おめでたい年の初めの放送だったにもかかわらず、私はどういうわけか興味を引かれました。
 久保ミツロウさんというと、あの『モテキ』を描いた漫画家として有名でした。私も、そのテレビドラマ化したものを何回か観たことがありました。しかし、名前から作者が男性だと思い込んでしまったため、途中でそのテレビドラマを観ることに、興味がなくなってしまいました。映画も観ていませんし、コミックスも読んでいません。
 私の理屈が変なのかもしれませんが、その漫画の作者が最初から女性だとわかっていたら、何の抵抗もなくその『モテキ』という作品の世界を、受け入れていたと思うのです。なぜならば、私は男性で、男性の欲望の世界をよく知っていたからです。その漫画の主人公の男性のように、男一人だけが複数の女性たちからモテモテになるということが、どうしても容認できなかったのです。もしも、女性が描いた漫画だとわかっていれば、そうしたモテキ願望は、自然な感じがして、有りだと思ったことでしょう。
 それはさておき、『逃げ恥』を見終わった後の久保ミツロウさんの意見は、まさにその通りだと思いました。誰しも女性であるならば、おそらく多かれ少なかれ、そういった愚痴なり不満なりをこぼして当然だと思います。女性の側から見れば、このようなドラマはおそらく現実を一つ一つ積み重ねていくような、その現実に即した、日常的な、生活感のあるドラマに見えたに違いありません。
 その一方で、私は、このTBSドラマ『逃げ恥』の最終回を、一切観ていません。テレビで観るのを忘れてしまった、というのがその正しい言い方なのかもしれません。観ようと思って予定していたのですが、面倒くさくなってやめてしまいました。そんなに、天地がひっくり返るような、大変な結末にならないような気もしていました。
 そんな私に、あれこれコメントする権利はないのかもしれません。けれども、コメントさせていただきます。星野源さんの演じた男性は、確かにピュアな男性だったかもしれないけれど、あの程度でいいお嫁さんが見つかるのだったならば、私なんかは20代30代で結婚できて、すでに家族ができているよと、言いたいのです。現実に私が経験したことは、誰一人女性に振り向かれなかったということでした。若い頃の私自身を反省してみると、女性との付き合い方だけが苦手だったというよりも、人間全般との付き合いを避けていたと言えます。そうした種類の男が、家族を持ってうまくやっていけるか、はなはだ疑問です。最悪、人間嫌いになったり、集団の中や、家族がいる中で、一人だけ人間関係を避けて、孤独を感じ続けることになってしまいかねないと思うのです。
 また、もう一つ別のコメントがあります。新垣結衣さんのような若くて綺麗で、ちょっと頭がよさそうな、生身(なまみ)の女性が、私自身の実生活に関わってくることは、100%近くあり得なかったし、今後もあり得ないと思いました。私は、家政婦などいなくても、必要ならば、自分一人で家事をやってしまう男なのです。いわゆる、嫁いらずなのです。小学生の頃に、家庭科の授業をちゃんと学んでいたことが、今の私には役に立っています。この家庭科で勉強したことは、受験勉強には全く役に立ちませんでしたが、生涯教育の観点からすれば、これほど役に立った義務教育の学科は珍しいのではないかと思います。今にしてみれば、家庭科に苦手意識を持たずに、その基本的なことを学べたことは、私自身の大きな宝になったと言ってもよい位です。決してそれは、言い過ぎではないと思います。
 こうしたことから、残念なことに、私は次のような一つの結論を導き出してしまったのです。私にとって、この『逃げ恥』というドラマは、現代女性にとっての日常的な現実を描いたお芝居というよりも、一種の空想世界を描いたもの、すなわち、ファンタジーにしか見えない。と、私は考えてしまいました。
 恋愛関係ゼロの若い男女が、会社の雇用契約みたいな関係で一つ屋根の下で暮らすというのは、かつてのお見合結婚の一側面と同じような気がします。そこに双方の親が介在するか否かの違いはあるものの、婚姻が、当事者の男女双方の合意に基づいている点からして、同じことではないかと思うのです。つまり、この『逃げ恥』というドラマは、『確実に手に入る幸せ』あるいは『確実に手に入る男女関係』を主題とした一種のファンタジーにすぎなかったと、考えられると思うのです。女性の側から見て、一見、現実的・日常的に見えても、彼女らの現実・日常の世界とは、このテレビドラマで描かれている世界はかけ離れている、というのが(まだ誰にも気づかれていない)真実なのかもしれません。