"I've Never Been To Me"の日本語カバーに挑戦する

 先日、大映テレビドラマの制作現場の裏話をテーマとした、日曜日の夜中のテレビ番組を見かけました。その番組中で、当時、民放の大河時代劇ドラマと呼ばれていた『おんな風林火山』の、オープニングテーマ曲であった椎名恵さんの『Love Is ALL −愛を聴かせて』が流れるのを聴きました。
 そう言えば、昔私は、その番組のタイトル名『おんな…』がちょっと恥ずかしく思って、お茶の間の家族の前で、堂々とその番組が観れませんでした。別室の狭い部屋のテレビで、一人でこっそりその番組を毎週観ていました。複数の文献による、史実に基づく時代劇ドラマではありましたが、あの大映テレビドラマのことでしたから、現代劇ゆずりの何らかの誇張があるフィクションだと思って鑑賞していました。
 案の定、私は、第一話の最初のシーンで、上杉謙信役の山下真司さんが、馬を颯爽(さっそう)と乗りこなして登場したのをよく憶えていました。その動作の機敏さが、ラガーマンのようだったので、つい、『スクールウォーズ』や『ヤヌスの鏡』などの現代劇の、ラグビー部顧問の熱血教師役を思い出してしまいました。
 もっとも、このドラマの本筋は、武田信玄の五女松姫と、織田信長の嫡男信忠との悲恋を描いた物語でした。それは、武田家の滅亡や本能寺の変まで描かれていて、かなりためになったドラマでした。あの二人は、政略結婚のために、幼くして許婚(いいなずけ)となったのですが、じかに会うことは許されません。相手の絵姿が描かれた巻物を渡された松姫は、そのために姉君たちのいじめに合って、その巻物をズタズタに引き裂かれるという憂き目にあいました。そういうシーンが、いかにも大映テレビドラマという感じがして面白かったのを憶えています。その二人は、今で言う遠距離恋愛のように、手紙でのやり取りをしていたのですが、いざ会えるという時に織田家と武田家が仲たがいをしてしまいます。そして、武田家が追いつめられて滅亡し、かつ、本能寺の変織田信忠が亡くなると、松姫は髪を切って尼さんとなってしまうというお話でした。
 毎週、ドラマのオープニング曲の流れる中で、風林火山の旗が風になびいている数秒間のシーンがありました。そのシーンを観るたびに、かつての大河ドラマでは感じたことのない、哀愁が伝わってきました。その点で、このドラマが、たとえ全て架空の物語だったとしても、人の悲しみをリアルに表現できていたと思います。そのことだけでも、視聴者を十分楽しませてくれた時代劇のドラマだったと思います。
 さらに、このドラマの一番最後のシーンで、松姫幼稚園というのが今でもあって、現代に生きる幼児たちの、そこへ通う姿が映し出されました。そのシーンを観た私は、改めて、そのドラマの描いた史実の重さに気づかされました。当時私の家の、お茶の間のテレビでは、NHKの大河ドラマ伊達政宗』が視聴されていました。けれども、私個人としては、その大映テレビドラマを最終回まで観てよかったなと思いました。
 さて、そのドラマの毎週のオープニングで流れていた椎名恵さんの歌唱による『Love Is ALL −愛を聴かせて』という曲ですが、麻生圭子さん日本語訳の日本語カバー曲でした。原曲は、シャーリーンさんの『愛はかげろうのごとく』という日本語タイトルで知られている”I've Never Been To Me”という曲でした。この『Love Is ALL −愛を聴かせて』という日本語カバー曲は、『おんな風林火山』というドラマの内容に合っていて良い曲でした。
 一方、原曲のシャーリーンさんの”I've Never Been To Me”では、その歌詞をそのまま日本語に直訳すると、重苦しくてハードな、あるいは、悲愴でセンチメンタルな内容あることが知られていました。清々しい曲調とは裏腹に、その歌詞がなにゆえにそんなに悲観的なのか、という疑問が浮かびます。その歌詞を日本語に翻訳して理解しようとした人は皆、その辺に苦労されているようです。
 例えば、"I've been to paradise, but I've never been to me"という歌詞のさわり(つまり、サビの歌詞フレーズ)がありますが、日本語に直訳っぽく訳すと、「私は、楽園に行ったことはあるが、しかし、本当の私というものにたどり着いた経験がない(つまり、私らしさを経験したことがない)。」となります。"to me"が「私自身に」だとすれば、'to myself'となるはずですから、その理屈からすると、少し変わった歌詞のような気がします。よって、その歌詞フレーズ後半の意訳として「私は、本当の私にたどり着けない」とか「本当の私が見えない」というような日本語訳があるわけです。仮に'paradaise'という言葉が比喩として使われているとすれば、「私は贅沢な幸せを経験したけれども、私には、本当の私を今だに経験できていない」というような意訳もできるわけです。
 私の場合はどうしたかと申しますと、’paradaise’は『遠くに夢見た幸せ』、’me’は『身近にあるけれども、気づきにくい幸せ(あるいは、たどり着いたことのない幸せ)』というイメージにしてみました。つまり、最も身近な存在であるはずの私自身にたどり着くことは、楽園(’paradaise’)にたどり着くよりも困難である。すなわち、私自身の本当の幸せは、最も身近であるけれども、それと同時に、最も遠いもの(すなわち、私自身がたどり着けないほど遠いもの)である、ということだと思います。
 したがって、この曲の日本語カバーのタイトルは、『近くて遠い幸せ』としてみました。早速、私が日本語に訳して作ってみた歌詞を見てみましょう。



    『近くて遠い幸せ』



女は人生恨むもの
子に不満を抱き 旦那にしめられ
無い物ねだり そんなあなたは
救いの手 求めてた
かつての私


あれは どこへでも飛んでけた あの日の私
誠実なあの人と結ばれた
けれど、そこからは逃げ出した 自由で居たくて
近くにあるようで 遠いこと



ここまで聞いて ひかないで
そう、聞いてほしい 孤独なわけを
偽りばかり 疲れた心
あなたにも言えるから わかってほしい


そうよ 贅沢な外遊をしてもみたわ
あの地では見栄ばかり張ってたわ
そして 金持ちの思うまま 未曾有(みぞう)の経験
私を探して 彷徨(さまよ)ってた


(セリフ)
遠くに夢見た楽園ってね
それは、いつわりの幸せ
私たちが、人や場所について
勝手に良しと思って作り上げた幻想よ
ほんとはね
あなたが小さな子供を抱えていること…
今朝(けさ)ケンカしても
今宵(こよい)仲睦(なかむつ)まじくなるあの人がいること…
それが、ほんとの、近くにある愛や幸せなのよ…


慰(なぐさ)めてくれる 子が無くて
泣き暮れていた
けど、思いのまま暮らしたのが 仇(あだ)になり
そして 身をけずり過ぎていた
自由のために
だけど、楽園では 満たされないわ
身近に愛 あるものよ



どこへでも飛んでけた かつての私
近くにある 幸せは
贅沢な外遊をしてもみたわ
近くにある…



 重ねて言いますが、この原曲の歌詞は、悲愴で重苦しい印象を、それを聴く人に与えるようです。特に、その人が、男性であると、そういうふうに感じられるようです。女性に対する、男の考えは単純なものです。そうした女性の心理に、理解しがたい、何か割り切れないものを感じるのだと思います。
 女性というのは、表向きはどんなに華やかにしていても、それが全てではないということを、そして、その心の奥底では悲しんでいる部分があるのだということを、そうしたことを、ほとんどの男性は意識できないのだと思います。たとえ、それに、ちょっとだけ勘づいていたとしても、男性は知らないふりをしてしまうものです。
 そうした男性の理解の無さに、愚痴の一つや二つくらいは、人前でぶっちゃけてみたくもなるものです。たとえ、それが正しいか正しくないかは別として、とにかく、この曲の歌詞のように、感情的になって、言いたいことを言わずにはおれないのだと思います。
 私みたいな、こんな性悪な女を理解できる男性はいないかもしれないけれど、女性のあなたなら共感してもらえるかもしれない、などと考えると思うのです。
 つまり、この曲を女性の視点から見れば、それほど悲愴でも悲観的でもないのだと思いました。この曲の歌詞は、決して重苦しいものではない、と見ることもできると思います。その爽やかな曲調と違(たが)わない軽やかな気分が、その歌詞からは感じられると、私には思えるのです。言わば、感情的になって見栄を張ったり愚痴ったりすることで、女としての活力が生まれてくるような、そのような曲調と歌詞の方向性だと思われます。
 こうしたことを踏まえて、”I've been to Nice and the Isle of Greece / While I sipped champagne on a yacht”という原曲の歌詞が、どうやって「贅沢な外遊をしてもみたわ」と意訳できるのかを説明したいと思います。上の英文をやや詳しく訳すならば、「(フランスの)ニースや(エーゲ海の)ギリシャの島々に行った経験が、私にはあります。それを経験している間、私はヨットの上で、シャンペンをすすっていたわ。」となると思います。
 フランスのニースや、エーゲ海ギリシャの島々と言えば、世界の金持ちがよく行きそうな、ヨーロッパの保養地として有名な場所です。(同様に、アメリカ合衆国のカリフォルニアやジョージアも、高級住宅が立ち並ぶ、金持ちが集まる場所として、ある意味、有名な場所と言えます。)そうした欧米の保養地で、海に浮かぶヨットの上でシャンペンをすすって穏やかに過ごすという情景を、私は『贅沢な外遊』という言葉にまとめてみたわけです。物質的な豊かさが、人生の豊かさにつながっているという、わかりやすい話なのですが、「楽園にいるような物質的に羨(うらや)まれる幸せを手に入れたとしても、自身の身近にある幸せを手に入れることはできなかった。」という話の落ちが、この曲の歌詞の重要な点と言えましょう。
 しかしながら、だからと言って、彼女は、そのことを深く後悔しているわけではないのだと思います。「そんな私みたいに、ならないでね。」と自らを嘲(あざけ)っている割には、そんな自らの半生を思い出すことを楽しんでいるかのように、その歌詞から読み取れるからです。自らの本当の幸せにたどり着けなかったことに言い及んでいる割には、人生の楽園にたどり着いたことを、そして、そこで得られた自由な幸せを自慢しているような所が、その歌詞の端々に見え隠れしています。
 この曲の歌詞の、そんな見栄っ張りな所が、私には気に入りました。普通、見栄などというものは、他人にイヤな思いをさせることと見られがちです。しかし、その突っ張った気持ちというものは、こちらがイヤな思いをしなければ、かえって可愛(かわい)いものだと言えましょう。その歌詞の内容全体を、悲惨な重苦しいものとは見なさないで、見栄っ張りで愚痴っぽいものとして、軽い気持ちで大目に見てあげると、意外と楽しめる曲や歌詞だと感じられるかもしれません。