情報の「確からしい」を考える

 高度情報化社会の盲点と申しますか、どうも最近、世界一般的に気になる問題があるようです。現代が高度情報化社会になってしまったのは仕方がないとしても、私たち人類の能力のほうがそれに追いついていけてないような感じを受けます。そんなふうに感じてしまうことは、実は、私の思い過ごしなのかもしれません。がしかし、少なくとも、現代に生きる私たちは、老若男女問わず、日常生活の情報処理が下手になっているように思えて仕方がありません。
 今年の始めに、私は、東京の自宅の本棚で、中学・高校の頃の国語の教科書に目を通していました。どういうわけか、中学1年から高校3年までの国語の教科書6冊だけは、捨てずに本棚に保管してあったのです。あの、芥川龍之介さんの『羅生門』を、国語の授業で読んだことをふと思い出して、それを探してみようというのが、そもそもの目的でした。ところが、その教科書の中の、全く別の文章が、私の目に留(と)まりました。
 それは、沢田允茂(さわだのぶしげ)さんの論説文で、『「確からしい」ということ』というタイトルの文章でした。その文章によると、「私たちの持っている知識には、その各々(おのおの)に『確からしさ』の程度の違いというものがあって、私たちが受け取った新しい知識や情報によって、その『確からしさ』の程度や判断が変化することもある。」ということなのだそうです。
 私たち一人一人は、外部から情報や知識を受け取る毎に、それをよく考えてみて、「それは確からしい」とか「それは疑わしい」とかの判断をしています。一つ一つの情報や知識は、他の情報や知識と照らし合わされて、「確からしい」か「確からしくない」かという、ぼんやりした違いで判断をされているわけです。
 それは決して、嘘か本当か、○か×か、0か1か、真か偽か、確かか確かでないか、正しいか正しくないか、といった、はっきりした判断の違いではありません。どんなことでもそうですが、「絶対に正しい」とか「絶対に間違いだ」とか言うことはできません。冷静に考えてみればそうなのですが、私たちは、どうしても意見や判断を二極化したり、二択にしてしまいがちです。
 そこで、現在の天気予報の降水確率のように、私たちが受け取った情報や知識の、その確からしさの程度をパーセンテージ(百分率)で表してみるといいのです。そうすると、そうした情報や知識のそれぞれが、どれくらい「確からしい」かが、あるいは、そうでないかがはっきりすると思います。
 また、私たちが持っている知識や情報の『確からしさ』を増すには、それなりのコツがあると考えられます。現代の高度情報化社会は、情報伝達のスピード化ばかりが意図されているような気がしますが、それが、情報内容の不正確さや混乱を生んでいるようです。本当に必要なのは、より確からしい情報を受け取ることなのです。私たちの意識は、情報を世に送り出す側を何とかしようと考えがちですが、それでうまくいくとは限らないと思います。むしろ、情報を受け取る側に、ひと工夫が必要です。
 たとえば、私たちは、何かを判断する時に、専門家の判断を聞くことがよくあります。その道の専門家は、その道の研究あるいは調査をしていて、理論とか法則とかいう「非常に確からしい」知識や情報を持っていると考えられるからです。つまり、多くの場合に当てはまるような「かなり確からしい」知識や情報を、専門家からは得られると考えられるからです。
 しかし、そうした知識や情報を「絶対に確かだ」と信じることは危険です。いかなる場合でも、例外はあるものなのです。しかし、その例外をそこで学ぶことによって、そうした知識や情報を、もっと「確からしい」と判断できるものにしていくことはできると思います。知識や情報を受け取る側が、それらを鵜呑みにしないで、その「確からしさ」を考えて、判断していくことが必要です。
 昔の、中学1年の国語の教科書で、私が偶然見つけた、その沢田允茂さんの『「確からしい」ということ』という文章は、1958年に出版された『少年少女のための論理学』という本に掲載されていたそうです。その本は、少年少女のために、論理学の考え方を、理論的に、しかもやさしく書いた本だったそうです。そして、その著者の沢田允茂さんについては、生活に結びついた、新しい論理学や哲学を研究していた人だったという評価もありました。
 私は、そうした文章が「少年少女のために、理論的に、しかもやさしく」書かれていたことに、大きな意義があったと思いました。哲学とか論理学とか言うと、私たち大人は「そんな難しいことを知らなくても、生きていけるよ。」と、その必要性を認めないのが普通です。しかし、それでいて、ネット上のウソ情報とかフェイク・ニュースから被害を受けても、「嘘は嘘だ。」と決めつけるだけで終わってしまいます。結局、その問題のほとんどを、根本からよく考えもせずに、迷宮入りにしてしまうのです。
 そんな大人たちよりも、もっと頭脳が未熟な少年少女たちが、そうした哲学的で論理学的な知識を学ぶことは、決して無駄なことではないと思います。決してそれは、役に立たない教養とか道楽ではないと思うのです。むしろ、これから大人になって社会で生きていくために必要不可欠な、本当の知識や教養だと思います。