反面教師といたしましょう

 まず、私の高校時代の話をしましょう。私は、普通科高校3年生の時に選択科目の一つとして生物Ⅱを学びました。そこで、メンデルの法則とか、赤い目のショウジョウバエの世代別発生件数の統計的結果とかを学びました。そこで、優性遺伝子と劣性遺伝子のことを学んだのですが、数学的な統計や数値が当時の若い私には理解できなくて、退屈な授業となってしまいました。つまり、その統計的結果から、何も興味ある事柄を導き出せなかったのです。

 しかも、私の母方の先祖は、武士(あるいは、地方豪族)の家系であったため、いとこ同士の結婚がしばしばあって、時々、兎唇(みつくち)の子供が生まれてきた過去がありました。そのため、子供の頃から私は母から頻繁に「いとこの×××ちゃんと仲良くしてはいけません。」と諭されていました。兎唇(みつくち)の遺伝子は劣性遺伝子であり、その劣性遺伝子同士が結びつくと、兎唇(みつくち)の形質が子孫にあらわれやすいという、鋭い指摘を言い聞かされました。

 そのような指摘は、確かにごもっともであり、科学的にも明らかなことでした。けれども、私は、そうした説明に含まれた誤った考えに永い間、振り回されることとなりました。その間違っていた部分を、この私の今回のブログ記事で、公にさらけ出してしまおうと考えました。

 まず、優性遺伝子とは何なんでしょうか。メンデルの法則を説明した教科書によると、例えば次のように表現されています。「エンドウの種子で、しわのないものとあるものを交配すると、翌年はしわのないもののみが収穫されて、この種子をさらに翌年育てると、しわのないものが3、あるものが1の割合になった。」以上の文面から、優性の法則や分離の法則があることを示す、こうした実験は事実であり、何の間違いもありません。それでは、何が間違っていたのでしょうか。

 実は、そのことを受け取る(あるいは、学ぶ)側の私たちの理解が間違っていたのです。一般に、教科書などの図解で、しわのない種子は『きれいな色をした丸い形』に描かれ、しわのある種子は『きたない色をしたしわくちゃな形』に描かれています。それを見て私たちは、前者は優性遺伝子を持つ種子であり、後者は劣性遺伝子を持つ種子であると、パッと見のイメージで判断してしまうのです。わかりよいと言っちゃ、わかりよいのですが、それが全ての誤解の始まりなのです。

 メンデルの法則は、見た目のイメージではなくて、数値として理解するのが大切なのです。すなわち、「優性遺伝子の形質と劣性遺伝子の形質を持つ種子を交配すると、次の世代の優性・劣性遺伝子の形質は全て:0の比であらわれて、その次の世代の形質は3:1の比であらわれる。」というだけのことなのです。

 したがって、優性遺伝子とは、『優れた形質』の遺伝子という意味ではありません。と同時に、劣性遺伝子も、『劣った形質』の遺伝子という意味ではありません。両親双方から引き継いだ同じレベルの遺伝子のどちらかが子供の形質として優先されて、あるいは潜伏して、子供の形質にあらわれたり、あらわれない(隠れてしまう)かの違いだけなのです。

 あらわれやすい形質(つまり、優性遺伝子)を持つ両親から、あらわれにくい形質(劣性遺伝子)を持つ子供が生まれてくる数学的確率はゼロではありません。いわゆる「トンビがタカを生む」ということわざがあります。一般的に、突然変異の事象をあらわしているかのように言われています。しかし、メンデルの法則に沿って考えてみると、「トンビがタカを生む」その確率は、突然変異がおこる確率よりも、ずっと数値的に高いことがわかります。(もちろん、「トンビがタカを生む」はもののたとえです。ラジオの『こども相談室』なんかで「トンビからタカが生まれますか?」みたいな質問があったら大変なので、ひとこと述べておきます。私の持っている国語辞典によると、このことわざは「平凡な親に、優れた子供ができた時のたとえ」とありました。確かに鳥類の分類上は、タカ目タカ科までは同じなのですが…。誤った情報や知識をお子さんに植えつけないようにと配慮しつつ、ここに注記しておきました。)

 また、こんなことも考えられます。仮に、天才か凡人かの形質の遺伝子があったとします。数学の統計学的に考えてみると、天才の数は凡人の数を上回らないのが常識といえます。すると、多数派の凡人の形質が優性遺伝子であり、天才の形質は劣性遺伝子であるということになります。もしもその逆だと、あちこち天才だらけで、天才という言葉の意味が無くなってしまいます。

 確かに、何らかの優秀な形質の遺伝子を共に持つ両親から、何らかの優秀な形質の子供が生まれてくることは、夢のある話だと思います。私は、そのような話を全否定するつもりはありません。ただ、その『何らかの優秀な形質』が優性遺伝子によるものと考えるよりも、劣性遺伝子によるものと考えるほうが、数学の統計学的に合理的ではないかと思うのです。

 私は、以上のように考えて、いわゆる『優性思想』が遺伝子学的根拠を失うと考えています。

 ところで、最近テレビのドキュメンタリーや、裁判のニュースなどで、19人の障害者を殺害したU被告のことが少し気になっていました。誰でも、一度はU被告のようなことを考えたことがあるものです。特に、若い頃の私は、今よりもはるかに精神的に不安定でしたので、そのことを否定することができませんでした。

 私がそのことで一番気になったのは、U被告に対してではなく、良識のある身障者の方や、そのほか多くの身障者の方々が、U被告の起こした事件をきっかけに、健常者たちへも疑いの目を向けだした、ということでした。U被告の問題は、彼自身だけの問題ではなくて、健常者の私たちみんなにあてはまる問題なのではないか、という疑いがかけられているということです。よって、私たちが、U被告に何らかの処分を下すことは、障害者の皆さんのそうした懸念を無視して、この問題をうやむやにしてしまう。と、障害者の皆さんが怖れている。と、そのように私は解釈しています。

 確かに、U被告の言葉を真に受けると、私でさえもイライラしてきます。裁判長のおっしゃられたことも、ごもっともです。しかし、この問題は、良くても悪くても感情的になっては何も解決しません。もっと冷静に考えると、そんなに難しい問題ではないことがわかります。

 アドラー心理学と言うものをご存知でしょうか。私も最近、夜中のテレビ再放送で、100分くらいの放送を見て学びました。『課題分け』という伝家の宝刀を示しましょう。(注記 『課題分け』という言い回しは、私のアドリブでした。正確には、アドラー心理学における『課題の分離』と呼ばれています。)

 U被告が死刑になるか否かは、実は、障害者の皆さんには何の関係もないことです。それは、U被告自身の課題であり、障害者の皆さんの課題ではありません。他者であるU被告の課題を背負うのは、たとえそれが善意からであっても、U被告を一人の人間として見ていないことになると思います。彼は、障害者と意思疎通ができないと言いつつも、裁判長とも弁護士ともあらゆる健常者とも意思疎通ができていません。その孤独を背負っているのは彼自身であり、彼と同じ殺人事件を起こして、彼と同じ孤独を背負うことは私たち健常者の誰にもできません。

 実は、10代の若い頃の私は、身近の大人である両親の言動や態度にいちいち違和感をおぼえていました。そして、彼らに隠れて、泣き出したり自傷行為に走ったことが何度かありました。しかし、やがて、やっとのことで、良い方法を見つけました。父も母も、私自身にとっては反面教師なのだ、と思うことにしたのです。たとえ私、自らが孤独であったとしても、そうして彼らを突き放して見ることによって、彼らを恨んでいたことが間違いであったことを、恥ずかしいことであったことを自力で気づくことができました。

 そんな私は、U被告を反面教師にしようと決めました。健常者の私たちは、障害者の皆さんに疑念を抱かせたり、怖がらせてはいけないと思います。障害者の皆さんも、健常者の私たちの言動を信じていただきたいと願っています。