大人の数学!?

 私は、学生時代からへそ曲がりで個性が強かったので、詰め込み教育や学歴社会の影響をあまり受けませんでした。現在そんなふうに書いてみると、良かったことばかりのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではないことを今のうちに断言しておきます。私の場合、知識を詰め込んで成績優秀と言われたこともなく、学業においてそれなりに特別な評価もされず、学歴社会の恩恵や優遇をほとんど受けてはいませんでした。よって、世の中の流れに乗って行けず、出世もできず、自らの家庭や家族も作れず、ある意味で孤立した人生を歩まざるを得なくなっています。そういう意味での私は、世間一般の目から見ると、反面教師の一例なのかもしれません。
 特に、数学などは、興味があって好きでしたが、その複雑な問題を解くのが苦手でした。基本的なことは暗記できましたが、それを活用あるいは応用して、時間内に問題を自ら解く段階になると、ほとんどできませんでした。その失敗の最たるは、高校受験の本番のテストで、数学の式と図形の関連問題が解けなくて、おそらくそれが原因で、1ランク上の高校に入れなかったことです。そのテスト終了直後に、その解答がひらめきました。が、ことすでに遅しと後悔することとなりました。
 それでも、私の、数学に対する興味や好奇心は強く、「数学は人生には役に立たない。そんなもの勉強しても、一銭にもならない。」と私の周囲がどんなに叫んでいても、全く気にせずに、二十歳を過ぎても数学関連の本やテレビ番組に見入っていました。
 このような私の経歴をみてもわかるように、私には決して数学の問題を解くような才能があるとは言えません。それに関する人並み外れた能力やセンスが、特別にあるわけでもありません。一般の人と同じように、「数学なんて勉強できなくても、日常生活で何も困りはしない。」という普通の考えを持ち続けて、大人になった一人なのです。
 ところが、学生時代の義務的な勉強から解放されて、改めてその内容の一部分を見直してみると、その日常の役に立たない面が重要であることに気づかされました。それは意外と重要なことだったのです。今回は、その一例をこれから示したいと思います。
 先日、Eテレの番組『テストの花道 ニューベンゼミ』を観ていたら、2次方程式の解を求めるための公式を歌で覚える動画を番組で紹介していました。「x(えっくす)イコール、2a分の、マイナスb、±√(ぷらすまいなす・るーと)、b自乗マイナス4ac」というような歌でした。簡単に『解の公式』と言って、中学3年の数学で習う、二次方程式(x(えっくす)の自乗のa倍たすxのb倍たすcが0(ぜろ)になる方程式のこと。)を解くための方法の一つのことです。このx(えっくす)の二次方程式の解を求める方法を、私なりに表現するならば、「bの自乗から4acを引いたものに√(るーと)をつけて、−bにそれを±(ぷらすまいなす)した結果を2aで割る。」ということになります。
 しかしながら、このような複雑な公式を覚えて主に役に立つのは、学校の数学の定期テストや模擬テストや受験のテストの時です。学校を卒業して、社会に出ると、ほとんどの人にとっては、必要がなくなります。誰もそれが当たり前のことだと考えています。しかしその一方では、受験のテストなどに出て、もしも、この『解の公式』を知らなかったら大変なことになる、と誰もが思います。そして、勉強して、苦心して、それを暗記するわけです。つまり、不良かへそ曲がりか落ちこぼれでないかぎり「この公式は、社会に出ても役に立ちそうにないから、全く知らなくても困らないから、学ばなくていい。」とは考えないのが普通です。
 かくして、私たち誰もが、いずれは忘れてしまうこの『解の方式』を、大切な学生時代のひとときを費やして覚えるのです。きっとそれに費やされるコストというものを、それほど誰も気にしていません。このような、多くの先生や生徒が授業やテストで費やす時間と労力を考えるようなことなど、やってはいけないこと(つまり、タブー)なのかもしれません。けれども、この『解の公式』を勉強する価値が、現代の日本社会や私たちの人生にどう影響するものなのかを、あるいは、本当に必要なものなのかどうかを疑ってみるのはいいことだと思います。実際、その学習の実用的価値を見直したくなっている人も少なくないはずです。
 ところで、私は高校1年の数学のある授業中に、某数学の先生の余談で、こんなことを聞かされたことがあります。「勉強には、実学と虚学があります。実学は、その言葉の通り、実生活に役に立つ勉強のことです。一方、その反対に、虚学は学んでも実生活に全く役に立たない勉強です。今、君たちが学んでいる高等数学は、実学5割で虚学5割ってところです。」
 私はその話を聞いて、だから高等教育(普通科高校の教育)は義務教育ではないんだな、と当時理解しました。学歴社会とか、受験のための詰め込み教育とかの考えを一切のけて、私はそう考えました。そうして実際には、高校時代の私は、成果の上がらないムダな勉強とその失敗を繰り返していました。
 さて、本題に戻りましょう。x(えっくす)の2次方程式の解を求める公式、いわゆる『解の公式』は、中学3年で学んだ時点では、2次方程式の数式やグラフなどの性質をいろいろ学んだ後の結果として出てきた公式でした。今から40年以上前の私の場合も、中学3年の義務教育の期間に、この公式を学びました。その時に私は、テストの計算問題を解く公式の一つとしてそれを暗記させられました。本当に、それはただの暗記でした。もちろん、数学の先生は、この公式を導く計算を黒板に書いて、説明してくれました。がしかし、それは全く私の頭には入りませんでした。どんな理屈があろうと、丸暗記ほど効率的な学習が他にはないことは、誰の目にも明らかでした。
 したがって、この公式は、中学3年の義務教育期間中に学んだということもあって、数学の基本中の基本だということになります。そして、公式の丸暗記ということは、縦のモノを縦に見るやり方と言えましょう。「基本中の基本を学ぶ」ということは、まさにそういうことなのです。
 ただし、大人の考え方としては、それで終わってはいけません。縦のモノをただ縦に見るだけではなくて、それまでと違ったアングル(角度)から見ることも必要です。縦のモノを横にして見てみたり、斜めの方向から見てみたりできることが必要です。
 例えば、この公式は、x(えっくす)の2次方程式の解を求めるための公式ではあるけれども、従来の見方を変えると、それだけではないことがわかります。その2次方程式ありきで考えるのではなくて、『解の公式』を中心に考えてみましょう。算数や数学では、分数の分母は0(ぜろ)になってはいけないというルールがあります。『解の公式』も分数で表されていて、その分母は2aです。実際、解の公式では「aは0(ぜろ)ではない。」という前提条件が付けられています。
 したがって、aは、x(えっくす)の自乗(2乗)と掛け合わされているため、そのxの2乗の値がaの影響で0(ぜろ)になることは有りません。必ず式の中に、x(えっくす)の2乗が残るわけです。つまり、この『解の公式』が適用できるのは必ずx(えっくす)の2次方程式であり、それが1次方程式には成りえないと推測できます。解x(えっくす)を座標の横軸にとったグラフで表すと、必ず放物線をえがきます。それは、決して直線や、放物線以外の曲線にはならないのです。
 また、さらに視点を変えてみましょう。いわゆるこの『解の公式』は、「2次方程式で表すことのできる変数x(えっくす)の値が、3つの定数a、b、cとの関係で、2つか1つ決まる。」というその関係性あるいは規則性を表していると言えましょう。暗記をしないと簡単に覚えられないその数式は、そういった関係性や規則性を明確に表すためのものなのです。
 そこで、「a、b、cが定数(一定の数値)である」という前提条件をはずしてしまうとどうなるか考えてみましょう。変数x(えっくす)が特定の値をとる瞬間に、a、b、cの3つの値の間で、その関係性を持ってとりうる全ての値の組み合わせを考えてみます。その場合、「aは0(ぜろ)ではない。」「bの2乗(自乗)から4acを引いた値は0(ぜろ)未満だと、解x(えっくす)がグラフで普通に表せない『虚数』になってしまうので、この場合は除外する。」といった条件を考えます。そして、変数x(えっくす)が特定の値をとる瞬間の、a、b、cの3つの値の関係性を各値を座標軸にとった3次元グラフを作って視覚化してみるといいと思います。ただし、ここまで実行するには、莫大な量の計算をしなければならなくなります。人間の力だけでは、とうてい無理な話です。コンピュータの計算力に頼らなければ、絶対実現しないと思います。
 さらに、これを変数x(えっくす)がとりうる値全部に関して、調べてみると大変なことになります。ひょっとしたら、x、a、b、cの4つの値の関連性を表すために、各値を座標の軸にとった4次元座標が必要になってしまうかもしれません。
 今回の私の妄想は、ここまでに致しましょう。こうした複雑で面倒な問題は、実際には、別の数学的な方法で対処するのが普通です。解析とか分析とかいう方法で、微積分や行列・ベクトルなどを使う必要があります。こうなると、高等数学や大学理系レベルの数学が必要になることを述べておきます。ここまで述べておけば、「いわゆる『解の公式』は数学の基本中の基本だ。」と私が書いた意味が少しでもわかってもらえると思います。とにかく、数学は、突き詰めれば突き詰めるほど奥が深いものです。記事を改めて書きたいと思いますが、最近巷で話題のあの『人○知能』も『ディープ○ーニング』も、数学的な視点から捉(とら)え直してみると、全く違うモノに見えてくると思います。