科学的なものの考え方

 ちょっと変かもしれませんが、私が科学的なものの見方・考え方を学んだのは、中学校の国語の教科書からでした。西尾実さん監修の『改訂標準 中学国語三』(教育出版株式会社)という教科書に、数学者である矢野健太郎さんの『科学的なものの考え方』という文章が載せられていました。それを、中学三年生の国語の授業時間に読ませられ、勉強しました。
 その頃の私は、国語がそれほど得意ではなく、読解力も人並み以下でしたが、なぜかその文章の内容だけはよく憶えています。その文章は、もともとは『数学ノートブック』という本に掲載されていたエッセイの一つだったそうです。筆者の専門である数学の、その歴史の中から、ギリシャ人のターレスが、エジプト人から学んで何をやったのかを述べています。それがその文章の骨子でしたが、そのことで、科学的なものの見方や考え方がどういうものかを知ることができるように書かれていました。当時、中学三年生だった私は、国語の文章を読み取る力がそれほどありませんでした。けれども、その数学者の文章からは、そんな私でもわかるような明確な箇所がいくつかありました。
 以下に、そのいくつかをカギ括弧「」を付けて引用します。科学的なものの考え方とはどういうことか、その第一歩とか第二歩とかがどういうことか、ということの記述に、あの頃の若い私は心を奪われていました。それは、私にとって、小説や詩を読んで感動することよりも強い、驚きの気持ちだったようです。
 まず、科学的なものの考え方の第一歩についてです。それは、「身のまわりをよく観察して、そこから一つの規則を見いだしていく」ことです。そして、それはまた「過去の経験の中から有用なものを取り上げて、これを将来の行動に利用しようとする」ことです。
 なお、ここで、私なりに補足説明させていただきます。こうしたことは、あくまでも『科学的なものの考え方』の第一歩です。科学的な研究の仕方としては不十分であることを、しつこいようですが注記しておきます。また、ここでの『有用なもの』に関しても、単に日常生活で『ある意味では役に立つか、都合のよい知識や情報』などではないことを注記しておきます。ここでの『有用なもの』とは、『ありふれていて、当たり前ではあるけれど、明白で疑う余地のない事実や法則のようなもの』の意味合いがむしろ強いと言えましょう。
 次に、その第二歩についてです。それは、「過去の有用な知識(ただし、ばらばらな知識)に関係と規則を見いだして、これらを整理・統一して、これらの知識をさらに有用なものにしようとする」ことです。つまり、こういうことです。ただ経験したからそうだと言うのではなく、ただ実験したからそうなったと言うのでもなく、経験したことや実験結果の『原因』や『理由』や『根拠』などを明らかにしてこそ、考えを前進させることができる、あるいは、進歩させることができる、ということなのです。
 そしてまた、その第三歩は、そうした第一歩および第二歩から「得られた統一のある知識を、さらにわれわれの生活に巧みに応用していく方法を考える」ということです。つまり、「さらに有用になった知識を実際問題にあてはめて」うまく活用していくことなのだそうです。
 数学者の矢野健太郎さんは、このようにも述べています。「ターレスは、エジプトの人たちが苦心して集めた知識から『…(略)である』というみごとな事実を見いだして、それに対して、単に経験的にそうなるというだけでなく、なぜそうなるのかという理由まで突き止め、つまり、定理を証明し、さらにこれを実際問題にあてはめるということまでしています。」
 このことは、矢野健太郎さんの別著『数学の歩み』という本の中で『ターレスの業績』という文章で、具体的な内容が述べられています。ターレス自身が証明した『三角形の合同』と『三角形の相似』を実際問題にあてはめて、障害物があって直接測ることができない距離や、ピラミッドの高さなどを実際に間接的に求めていました。それらは、現代の私たちが高等数学の三角比の応用で答えを出している問題と同じです。つまり、ギリシャ人のターレスは、現代の私たちとは違うやり方で、同じような問題を解いていたわけです。ターレスは、エジプト人から学んだばらばらの知識から、二つの三角形の合同もしくは相似になることを定理として証明して、さらに彼自身でそれらの定理を実際問題に応用する工夫まで考えていたのです。
 ところで、土地(ジェオ)と測量(メトリー)とをくっつけて、幾何学(ジェオメトリー)と言います。現代の私たちは、幾何学および幾何学的なことを小中学校の算数・数学で学び、三角比を高校で高等数学として学びます。そのために、三角形の合同や相似は、三角比と比べて低く見られがちですが、決してそうではないことを知るべきだと思います。事実、幾何学に基づくターレスの考え方を具体的に学べば、それが、数学はもとより科学にとっても欠かせない、学問として根本的な考え方に基づいていることがわかります。
 けれども、それを、数学の世界でしか通用しないもの、つまり、数学独自の技巧的なもの(テクニック)であると見てしまう人も多いかもしれません。数学の証明問題なんて、こんなもの解いたからといって、社会の役に立つわけないと、現代人の私たちは思うだけなのです。
 矢野健太郎さんは、この『科学的なものの考え方』という文章の結びで、こんなふうに述べています。「ちょっと考えるとわかりきったことにみえることでも、それらをよく考察して、それらを基礎の知識として、それらに立脚して次の問題を考えていこうとするのは、りっぱな科学的なものの見方、科学的なものの考え方である」と思うと、述べています。
 そして、それは、ほとんどの科学者やその研究者にとっては、当たり前のことと聞こえるかもしれません。彼らは、「そんなことわかりきっているよ。」と口をそろえて答えてくるかもしれません。
 しかし、その文中にある「それらをよく考察して」とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。その問いに彼ら一人一人は、彼らそれぞれの専門的な研究の知識と事例を挙げて答えてくると思われます。その一方で、私は、それらの答えを整理・統括して、それを『科学的なものの考え方』の第一歩・第二歩・第三歩として述べることができると思います。
 現代の私たちは、過去に築かれた科学や科学技術の恩恵や成果に依存して生きています。しかし、問題なのは、そうした恩恵や成果に依存しすぎて、そうした『ものの見方や考え方』に疎(うと)くなりがちな点です。そうした恩恵や成果に、何も知らずに胡坐(あぐら)をかいているだけではいけないと思います。科学的なものの見方や考え方について、少なくともその本質だけでも知っておく必要があると思います。