『精神的機械』について

 私がこの言葉を初めて知ったのは、17才か18才の時でした。講談社ブルーバックス(BLUE BACKS)の『発想工学のすすめ』という本を買いました。この冊子をパラパラめくると、そんな言葉の見出しに目が止まりました。しかし、当時の私は、理工書や、機械工学に特別な興味や関心があったわけではありませんでした。この本を買ったのは、カバー・イラストがデザイナーの真鍋博氏のものであったためです。そのイラストの細かな線や配色がキレイだったので、この本を買ってしまっただけのことでした。
 この本の著者である森政弘氏は、あのロボット・コンテスト(通称ロボコン)の提唱者であり、そのコンテストの審査員長であったことでも有名な方です。この本は、そのロボット・コンテストが実際に始まるよりもはるか昔に書かれたものでした。
 本の内容は、どれも私にとっては専門外のことであり、その分野を学校などで勉強したことはありませんでした。以前も書いた通り、私の家は町工場でした。私の部屋は、毎日父が溶接の仕事をしている作業場の真上にありました。そんな小さな工場(こうば)が身近にあったので、普通は理工学的なことや物に興味を持ちそうなものです。事実、私は幼い頃から幼稚園に行く前まで、その『工場』の近辺で遊ばされて育ちました。しかし、コンクリートを流して押し固められた作業場の地べたや、顧客に納めるアルミ・ステンレス・鉄物の製品や、それを加工するための溶接関連の道具などは、見た目だけでなく手で触っても、その冷たさと硬さが感じられました。言い換えれば、コンクリートと金属とアルゴン・ガスの無味乾燥さが日常的に感じられました。このように私が身近に感じていた現実は、どう考えても理工学の世界の理想とは大きなギャップがあるように思えました。私は17才か18才になっても、その『発想工学のすすめ』という本に書かれていた、発想工学というものの見方には、何かしっくりいかないものを感じていました。
 要するに、当時の私は、数学や自然科学や工学などが、人の心(または精神)を正しくする力を持っていないと考えていました。それらを学ぶことと、人間の複雑な精神活動を勉強することとは全く相(あい)いれないものであり、別物であると考えていました。若い頃の私は、邪念が多くて精神的に不安定で、何とかして自己を良い方向へ導かないといけないと思い悩んでいました。その解決のヒントを得たいがために、文学的な方面に気持ちが動いていったのです。若さのために気持ちが落ち着かなかった私にとって、数学や自然科学や工学の持っていた便利さや合理性、国が奨励し、将来の就職につぶしが利くことなどは眼中にありませんでした。古い言葉ですが「日本人はエコノミック・アニマルだ。」と当時の欧米外国人によく言われていたことが、若い私の胸に突き刺さっていました。どんなに経済的に良くなっても、その本性は獣(けだもの)や犬畜生と同じであり、ちっとも文化的でなくフェアでないと欧米外国人に見られていたことが、若い私の心を深く傷つけていました。若い私が、典型的な理工離れとなった背景にはそうしたことがありました。
 従って、私は今日までこの本を初めから最後まで読み通したことがありません。理工学的なものへの期待感の無さが、私を長い間そうさせたのです。でも、たまに本棚に立てたこの本の、『やわらかい機械』というサブタイトルのマゼンタ色で印刷された活字に目がいくと、この本を手にとって、適当に開いたページから一項目か二項目読んでは、その内容に「へぇー。」と感心していました。
 私たちは、『機械』というものは便利で、必ず生活の糧(俗に言うと、飯のタネ)になるものだと思っています。その延長で、電力でほとんどの機械が動きますから、『電力』も機械と同じで、便利で毎日の文化的生活に無くてはならない物と考えています。機械も電力も、どんなに危険なものであっても、便利で生活必需品ですから、みんなが使いたがります。日常的には、自動車なんかがそのいい例です。交通事故で命を落とす危険があっても、便利だから、もしくは、生活に必要だから、乗らないわけにはいかないのです。
 ところが、この『発想工学のすすめ』という本の中で、著者である森政弘氏は次のようなことをポイントの一つとして述べていました。何の役にも立たない機械を作るのも、また重要だとおっしゃっていました。それはまさに逆転の発想でした。機械は便利だから、役に立つから意味があるのだ、というのが普通の常識でした。しかし、その著者の発想にはしっかりとした根拠がありました。実際に、何の役にも立たない機械を作ろうとしてみるとわかります。実は、その方がずっと難しいのです。機械を作ることに対する根本的な発想(考え方)を変えなければ、絶対にそんな機械は作れません。
 この著作が出版された時代には、すでに物質文明や機械文明の行き詰まりが指摘されていました。現に、私たちも、様々な機械やそれを駆動するための電力などが便利で日常不可欠なものであることを知っています。しかしその一方で、それらを完全に信じきることが危険であることや、電源喪失で全く役に立たなくなってしまうことを知っているはずです。それらがもたらす便利さを過信してはいけないことを、つい最近いろんなトラブルで誰もが思い知ったはずです。ですから、ただ便利だから、生活に必要だから、役に立つからというだけで、機械を見てはいけないことに気づくと思います。機械を使う側がそうした意識を持つようになれば、機械を作る側もそうした意識をもって製造に当たるのではないかと、私は思います。
 だいぶ硬(かた)い話になりました。ところで、その本の文章中に現れた『精神的機械』とはどういう物だったのでしょうか。著者である森政弘氏は、お寺の鐘や風鈴を例に挙げて説明しています。それは、人間の精神を養い育てるものであり、実際には人間自らがその精神を養うことを補助してくれるようなものである、と述べています。お寺の鐘や風鈴は、それそのものに便利さや生活必需品としての実利性はありませんが、人間の精神(心)に働きかけて、それを豊かにしてくれます。そのことを、工学的な立場から機械が人間の精神に及ぼす影響として考えて、その価値の可能性を述べていることに、この著者の独創性がうかがえます。つまり、『精神的機械』とは、実用的で具体的な機械そのものではありません。個々の具体的な一般の機械は、便利さや必要性などのプラス面はあるものの、通常は人の心に対して中立的ですが、時には人に対して害や危険などのマイナス面を及ぼしかねないものなのです。一方、(作るのが極めて困難で)何の役にも立たなそうで、それでいて人の心をなごませたり、人の心にフィットするような機械が、そのような『精神的機械』になり得たようです。
 例えば、テレビは、時には娯楽になったり、時にはニュースやお得な情報を知ることができます。がその一方では、長時間見すぎて目が悪くなったり、知りたくない嫌なニュースや情報も知ってしまうことがあります。それは、テレビという機械がそのように使われるように作られているからです。ここからは、前向きな話をしましょう。決して、後者のマイナス面を電器メーカーの営業マンに訴えて、テレビを開発・生産し直すなどということが無いようにしたいと思います。つまり、後者のマイナス面が、テレビを利用する人(視聴者)の心を養い育てるものになる必要があります。それは、テレビという機械をどう直せばいいかということではなくて、視聴者に既に手渡された機械であるテレビが『精神的機械』になることが必要なのではないかと私は思います。
 もちろん、著者である森政弘氏は、機械を作る側の発想を転換して『精神的機械』を作ることの重要性を説いています。私は、そのことを踏まえつつ、機械を使う側がいるから、機械を作る側がそれを意識して『精神的機械』となりうる機械を作れるのではないかと考えているのです。つまり、私の考えでは、この『精神的機械』というものは、テレビがその一例であるように何のソフト的なサービス(例えば、アフターケアとか)も無くして機械単体で成り立つものではない、もしくは、視聴者が納得するもの(つまり、ユーザ指向のもの)でないと売れないし販路が広がらない、そういう機械なのではないかと思います。
 例えば、お客さんから「長時間見ても疲れないテレビが欲しい。」という要望があったとします。それを聞いた電器メーカーの営業マンさんは、お客さんの言うとおりの『長時間見ても疲れないテレビ』を開発部門や生産部門の技術者に作ってくれとは言わないはずです。その『長時間見ても疲れないテレビ』をもし金と時間と技術で開発しても、メーカーは儲かりません。それよりも、その営業マンさんがお客さんの要望をよく聞いて理解して、お客さんと一緒になって考えてあげて、「こうするとテレビを長時間見ても、目が疲れませんよ。」と言って、少々ノウハウをサービスで教えてあげればいいのです。お客さんとの信頼関係は増しますし、だいいち無駄な開発生産コストがかからないでしょう。このように機械の金物(ハードウェア)をあれこれいじくらずに、機械の使い方(ソフトウェア)をあれこれ考えるほうが合理的なのではないかと私は思っています。そうすれば、機械の使い方(ソフトウェア)がいろいろできる機械の必要性が増して、機械を作る側(または開発する側)の方向性も明確になって、活性化するのではないかと思います。
 そうは言うものの、私にもこんな負い目があります。私は若い頃から幾つもの航空旅客機事故をテレビで見ています。その結果、私は航空旅客機という機械に不信感と不安感を持つことになりました。いまだに私は航空旅客機が恐くて乗れません。私は、今日まで飛行機に乗って国内もしくは国外に一度も行ったことがありませんし、事故に遭ったら必ず命を奪われると考えて、飛行機に絶対乗りたくないと今でも思っています。坂本九さんや向田邦子さんが飛行機事故で亡くなったのは、運が悪かったからだと考えることは私には絶対ありません。
 私は決して飛行機(特に航空旅客機)の素晴らしさを否定するつもりはありません。素晴らしい乗り物であることを、テレビや博物館や飛行場(もしくは、空港)で見て知っています。でも、本心を打ち明けるならば上に述べたとおりです。「飛行機にそんなイメージを持っているなんて、時代遅れもはなはだしい。」と、世間から馬鹿にされるのを覚悟で申しました。でも、飛行機に乗れない私の気持ちが、現在の日本で原発再稼動に多くの人たちが恐怖を抱いてしまう気持ちと似ていることは明らかです。それだって、福島原発の事故をテレビで見たことから始まったのですから、同じ恐怖の気持ちは五十歩百歩だと思います。
 このように、従来の機械(および、その機械を含むシステム全体)に対するイメージというものは、たった一度でもそれに不信感や危険性を感じてしまうと、それをくつがえすのが極めて困難になると言えます。例えば「承知しました。」と答えて、機械的に(つまり、精密かつ正確に)物事をこなす人間を、私たちは誰でも奇異に感じたりします。多くの日本人は、機械や機械的なものに対して無意識に不信感を必ず持っているものです。ですから、機械が人間の精神に何らかの影響を及ぼす『精神的機械』という発想は、これからの私たちが様々な機械(ロボットも含めて)というものと向き合っていく上で必要不可欠な発想になっていくと私は思います。