私のプロフィール 受験勉強の奇跡

 以前私は、私自身のブログ記事で、高校入試の数学の試験で、時間内に問題が解けなかったという大失敗をしてしまった、ということを書きました。今回は、それとは逆に、大学入試の世界史の試験(選択科目の試験)で上手く解答できた、その経緯(いきさつ)について述べてみたいと思います。2012年10月21日付の私自身のブログ記事『主権在民について』で、そのことを簡単に書いていましたが、今回はもう少し詳しく述べてみましょう。
 ご存知のとおり、私の学校時代は、受験戦争と詰め込み教育の全盛期でした。大量に勉強の知識を記憶している人ほど、学校の勉強ができて、テストの成績が良くなって、良い学校の入試にも合格できるという時代でした。そのことの良否は別として、それが当時の私の直面していた現実だったのです。
 それにしても、高校二年の一年間の授業で週一、二時間学んでいた、青緑色の表紙カバーの世界史の教科書が分厚(ぶあつ)かったことは、この歳(とし)になった今でも忘れられません。学校の授業を学ぶのに使われた教科書の中で、当時のその世界史の教科書ほど厚みのある教科書は、他にはなかったと思います。高校三年の一年間の授業で同じく週一、二時間学ぶのに使っていた黄色の表紙カバーの日本史の教科書よりも、その厚みがずっとありました。
 私は、普通科の高校へ通っていましたが、地理・世界史・日本史・公民という区分けで社会科の各科目を学ばされていました。高校一年で地理、高校二年で世界史、高校三年で日本史と公民の授業があって、各学年でそれらの科目の単位を取得しました。高校時代の私は、個人的に世界文学に興味を持っていたので、大学で外国文学を勉強したいと思っていました。その一方で、数学や物理では、興味はあったものの、その授業や試験や通信添削などで数多くの挫折を経験していました。とてもじゃないけれど得意科目とは言えませんでした。当時の大学入試では、選択テスト科目として、社会科か理科の系統の得意科目を最低一つ作っておかなくてはなりませんでした。したがって、高校三年では、受験勉強のために世界史を勉強することを、私は選ぶこととなりました。
 ところが、ここで、当時の私は、世界史をどうやって勉強しようかと考えることになりました。高校二年の一年間に授業で勉強したものの、その実際に学んだ事柄は、教科書上では飛び飛びで、しかも、その分厚い教科書の内容の三分の一は、授業で学ぶ時間がありませんでした。世界史の参考書を買って、目を通したものの、教科書よりも沢山覚える事柄が書かれていて、さらに勉強が困難になってしまいました。このまま受験勉強のために、予備校に行ったとしても、通信添削を利用したとしても、頭に詰め込む知識が増えるばかりで上手くいかないと、私は一人勝手に考えていました。
 そこで、「急がば回れ。」というか、少々時間はかかっても一番ケチな方法を考案することとなりました。「読書百遍、意おのずから通ず。」という諺(ことわざ)にもあるように、どんなに理解が困難な文章や書物の内容であっても、何遍(なんべん)も読めば、その意味内容が自然にハッキリとわかって理解や記憶ができてくるものだ、と当時すでに私はそう考えていました。そこで、世界史の教科書を、受験シーズンが来る前に、最初のページから最後のページまで、最低三回は読んでおこうと決めました。
 また、中学時代に私は、NHK総合テレビで毎日夕方になると『新八犬伝』という人形劇を観ていました。その劇中で、「因果は巡る糸車。」という、今は亡き坂本九さんの語りをよく聴きました。その通り、そうです。人間の歴史は、日本であろうと、世界であろうと、今であろう、昔であろうと、「因果は巡る糸車。」なのです。数字の細かい年号の暗記なんか、関係ないのです。何世紀ごろあたりのことだとわかっていればいいとわかったので、その『分厚い』世界史の教科書のみを三回読み込んで、その記述内容を理解するという勉強を実際にやってみました。
 H大学の入試で、世界史を選択しました。すると、いくつかの選択肢型の設問に続いて、記述式の設問がありました。「イギリスからのキリスト教布教と、中国のアヘン戦争について80文字以内で述べよ。」という設問でした。高校で受けた世界史の授業では、全く学んでいない箇所でした。しかし、当時の私にとっては、全く焦(あせ)りが感じられませんでした。あの分厚い世界史の教科書の全ページを読んでいたので、何を書いたらいいかはすぐわかりました。今になってみると、その書いた内容は全く覚えていません。けれども、私自身が教科書を読んで記憶したことの5W1Hは、ちゃんと記述できたと思います。しかも、80文字目のマス目に「。」を入れて、ぴったりと解答できたことが、私の心の中では一番の自慢でした。
 結局、後にその大学入試に合格したことを知りましたが、そうやってH大学に入学できたことは、私には思ってもみなかったことでした。ほぼ独学みたいな受験勉強の仕方で、世界史の試験がうまくいったことは、その後の私自身の人生に大きな自信と影響を与えてくれたと思います。
 よく、受験勉強なんて、学校の受験の時にしか役に立たない、若い時にしか役に立たない。大人として生活していくのに、何の役にも立たない。あんな勉強の知識など、出世につながらなければ、やるだけムダじゃないかと、世間一般は言うかもしれません。ある意味、それはその通りです。そんな余計な学問や教養を身につけなくても、立派に一人前の生活を営んでいる人は、世の中には沢山います。
 だから、私はこう考えます。何をどれだけ勉強したかが重要なのではなく、本当は、どのように勉強したのか、あるいは、どのように苦労したのかが重要なのかもしれない。その結果として、思いもよらない奇跡みたいなことが可能となるのかもしれない。そんなふうに、私は、考えています。