本当に怖ろしいことは何か?

 私は、名声も地位も財産も無いので、女性記者や女子高生などから最初から相手にされませんし、相手にされたこともありません。最近テレビで騒がれているような女性問題には引っかかりにくいようです。そんなふうに言うと、何か油断しているように見られるかもしれませんが、世の中の社会や組織のこと、こうした世の中の風潮や、緊縮した雰囲気などを危惧してはおります。多くの世間一般の人たちも、誰もがそう思っていることでしょう。
 私は、幼稚園や小学校、中学・高校・大学ですべて男女共学でした。社会に出ても、女性の社会進出が始まった頃で、その流れと男社会の狭間で、持つべき価値観が左右に揺らいでいました。もちろん、若い頃の私は、対人的に迷惑をかけたこともあったと思われます。そうした時は、必ず相手に人として嫌われたことを痛感していました。
 未成年あるいは未熟な成人としての私は、自らのそうした軽率だった言動に、心に一生残る傷としてイヤな気持ちを持ち続けることとなりました。その記憶と気持ちは今も変わりません。そうして、結局、私は私自身の心の中で責任を負いました。
 しかし、そうした辛い経験を若い頃にしたからこそ、そのまま間違った言動がエスカレートすることがなかったのです。また、相手の人間からストーカーとかセクハラとか言われて、公に訴えられることもなかったのだと思います。さらに、若い私の些細な失敗が、大ごとに至らなくて済んだのだと思います。
 私の言いわけに過ぎないかもしれませんが、人間だから誰だって『個人的に』多少の過ちを犯してしまっても仕方ないのかもしれません。もちろん、そのことを全面的に容認してもいいとは申しません。けれども、それに多くの人たちが過剰反応をして批難することは、余りにも大人気(おとなげ)の無いことです。つまり、私たちの生きている社会の人間関係をギスギスさせてしまうことに、結局なると思います。個人の気持ちや主張を大事にしすぎる余り、他人の気持ちや主張が理解しにくくなってしまうのです。
 そのようなことの例の一つとして、最近私がテレビで観たある映像の話を致しましょう。それは、ある雪山で、熊の子供(と言っても、大型犬くらいの大きさの動物)が、人間に近づいてきたので、人間の側が大声をあげてその熊を追い払う、というシーンを撮影したものでした。人間が大声をあげて熊を追い払うその行為が良いのか悪いのかは別として、私には次のような思い違いがありました。
 一般的に考えれば、近づいてきた熊を人間が追い払う行為は、当たり前のことと言えます。近づいてきた熊によって、人間が殺傷されるということが、私たち人間誰もが持っている常識だからです。しかし、私は、その映像を見た瞬間に、全く違う解釈・理解をしてしまいました。その熊の子供は、人慣れしていて、人間のおじさんを襲うどころか、頭をなでてもらいに人間に近づいてきたのかもしれないと考えてしまったのです。(世界の動物愛護団体からは表彰されるかもしれません。でも、熊に命を奪われてしまっては元も子もないのも事実です。)
 もしも、そんな考えの私が現場にいたら、熊に殺傷されてしまったことでしょう。戦場で、敵国の兵士と鉢合わせして、何の抵抗もなく殺されてしまうのと同じかもしれません。このように、私たちの常識は、私たち自身の自由な発想や主張を、常に制限するためにあるのです。だから、その常識でもって、私たちがいくら辛い思いをし、いくら納得がいかなくても仕方がないと思うのです。その常識を無視することは、自らの破滅や自縄自縛に結局なってしまいます。私たちが、本当に気をつけなければいけないことは、あるいは、本当に恐ろしいと思わなければいけないことは、その現場に私自身が居たとしたならばどう判断するべきなのだろうか、という想像力を欠いてしまうことだと思います。
 実を言いますと、私は、『女性』という言葉は好きではありません。『女人』という言葉のほうがしっくりときます。女性差別の『女性』という言葉のニュアンスと、女人禁制の『女人』という言葉のニュアンスは同じではありません。私が、その辺の言葉のニュアンスをどういうふうに考えているかを説明しましょう。
 『女人』という言葉に違和感があるというのならば、『女の人』と言い換えてみましょう。『女』も、男の私と同じ『人』であるという意味です。男女共学の中で得た成果と申しましょうか、これまで生きてきた私の感覚では、これからの女の人は『女性』である前に『人』であるべきだと思うのです。そんなに難しいことではありませんが、『人』として責任をしっかりと持つべきです。(当然、男も同じです。男女を問わず、頑張っている人もいらっしゃることを、私はよく知っています。)外国の状況をよく精査してください。場合によっては、男からの助力、あるいは、他者からの助力を期待できずに自己責任を負うことも少なくありません。
 つまるところ、私の心の中では、レディーファーストの考えも、男性優先の考えもありません。得るべきものは得て、失わざるを得ないものは失うしかありません。そのことに対して、覚悟や勇気を持つべきだと思います。