他人と他人をつなぐもの

 現代社会の問題の一つとして、他人と他人をどうつないだらいいか、という問題があると思います。
 ウェブ・ネット上では、FaceBookにしてもLINEにしても人間関係のつながりを目的としています。その目的を、経済的な合理化・効率化によって、コンピュータ・システムの利用で機械的に実現しています。ただし、こうした機械的なやり方で、本来の目的を十分に実現できているのかどうかについては、改めて考えてみる必要があると思います。
 家族の絆とか同僚の絆とか夫婦の絆とか、或は、社会の絆とかいうことにも、実際には問題があります。私たちは一言で『絆』という言葉を使いますが、人が一生その言葉にお世話になって生きていくわけではありません。誰でも、その人なりの希望・願望があり、相手との『絆』によってその望みに賛成してもらえることもあれば、逆に、猛反対されることだってあります。共感をもらえて頑張れることもあれば、こちらが折れて我慢しなければならないことも当然あります。
 この『絆』というものはモラルの一種であり、時には『モラルの向上』ということまで言われます。しかしながら、いくらモラルの向上を訴えても、どうにもならないことがよくあります。なぜならば、経済的な合理化・効率化の方が、私たちにとって優先順位が高いからです。何らかの経済的な利害関係によって、私たちの日常生活は営まれているからです。その利害関係から考えられる理由から、私たち一人一人は毎日の生活上の判断を下しています。
 よく言われることの一つとして、親が、子供に飯を食わすことで精いっぱいだという経済的な理由で、子供の言動には無理解になってしまうということがあります。親子の人間関係が、本当はうまくいっていないけれども仕方がないという、よくある例です。だからといって、どれだけ経済的に向上すればそれが改善できるのか、モラルが向上すればそれが改善できるか、どちらにしても指標が見えない課題です。妻子がいない私が、こんなことを述べているのは奇異なことかもしれません。けれども、私自身や知人の家族関係(特に親子関係)を目にしていると、そのような関心を自然と持つようになるのだとご理解ください。
 以上のことから、人間社会にはもともと問題があったと、考えることも、私は一理あると思います。人はそれぞれ考えや思いはバラバラだし、世界的に人口は増える一方だし、それらが引き起こす問題を地球的・全人類的に考えれば考えるほど悲観的にならざるをえません。
 例えば、私は、本来『エヴァンゲリオン』というアニメを観ていた世代ではありませんでしたが、たまたまテレビで目にしていました。このアニメを観ていた当初は、そのアニメのテーマがよくわかりませんでした。劇中に出てくる『人類補完計画』というものの目的が、全く理解できませんでした。そんなことを考えること自体、先の見えない深淵にはまった考えのように思えました。しかし、その暗い考えが表現していたものが何なのか、わかるようになりました。それは、私たちが日常的に感じる、現実の人間関係に見いだされる漠然とした不安であり、かつ、人類の将来への心配と不安であるのだと、いつしか私は理解できました。しかも、そうした不安や心配を抱えてきた人間全体に『人類補完計画』が実行されれば、それまでの人間の罪(或は、あらゆる失敗や欠点やダメだった所)が許されて救われるのだ、という主張がアニメ的に表現されていた。とまで、(おそらく私の考えすぎだったでしょうが)思いました。
 誤解が無いように言いますが、私は決してこの『エヴァンゲリオン』のアニメが表現している世界を認めているわけではありません。それを肯定しているわけでも、受け入れているわけでもありません。あくまでも、今の現実の世界を考える上で、参考になったと思っています。
 人間関係が全体的に希薄になったと言われる今日(こんにち)において、常識的には、そうなったのは各人の責任だと、それを仕方がないとあきらめざるをえないと、私たちは思い込んでいます。私たち一人一人が、その責を何らかの不幸で負わなければならず、それができなければ、社会や国家や地球全体が道徳やモラルの類(たぐい)を強制しなければならなくなる。よって、『人類補完計画』のような無茶な計画もその想像線上にありえる、ということにもなってしまいます。
 しかし、ここで言わせてもらいたいことがあります。現代の私たちには、大事なことを忘れていたか、もしくは、学んでいなかったことがあります。他人と他人をつなぐものを、改めて考えてみましょう。そこで、私は新たな答えを出すために、前回のブログ記事で、いわゆる『中継ぎ』が不要になった世の中の流れのことを話したのです。
 ただ単に、昔の仕組みを復活させようというのが私の趣旨ではないことにご注意ください。その仕組みは、それがあった昔に世の中の流れに負けて十分機能しなくなってしまいました。それが世の中で機能するためには、私たちの十分な反省が必要なのです。
 私は、世の中の組織(もしくは、システム)が経済的に合理化する過程で、従来の人間関係が犠牲にされて衰退してしまったと考えました。あるいは、経済的な合理化・効率化が世の中の風潮になって、私たちが従来の人間関係を邪魔なものとして始末してしまった、というふうに思えました。
 確かに、会社組織の意思の疎通は『命令』であり、物流システムで運搬されるのは『物』です。それらの伝達または運搬の課程が、経済的に合理化されることは良いことです。しかし、そうした会社組織や物流システムは、いかに合理化・効率化されようとも、『人の心』や『人の気持ち』は伝わらないような気がします。物流システムを例にとってみると、生産者は「もっと高値で売りたい」と思い、消費者は「もっと安値で買いたい」と思っているはずです。
 でも、その両者の思いは物流システムがいくら合理化・効率化されても、お互いには伝わりません。むしろ、伝えてはいけないことだったのです。お互い納得していることが暗黙の了解であり、そこに円滑な流通を妨げる余計な情報があってはならないという仕組みだったのです。このことは、従来のシステム(自由化前の国内米の流通など)にもあったことです。だから、中間卸売業なんか必要なかったんだという理由にもなったのです。
 こうしたことは当時、国の政策でもあったので仕方がなかったかもしれませんが、良い結果を残せてはいなかったと思います。今の私の考えとしては、生産者と消費者をつなぐものは、やはり人であり、両者の言い分をお互いに伝え合って、お互いに納得し合うことが大切だと思います。例えば、生産者が「安心安全」と言ったって、消費者の考える「安心安全」と食い違っていることは明らかです。何がどのように「安心安全」なのか、地域の事情によっても微妙に違っているはずです。小さいことと思われるかもしれませんが、精神的に中継ぎをする(心と心をつなげる)人がいないと、いずれトラブルの大きな原因となると思います。
 言うまでもないと思いますが、中間管理職やそれに類する役割の人は、どうしても必要になると思います。社長と社員のみんなの考えと思いが全く同じでないかぎり、人の組織としてうまくいかないのが当たり前だと思います。よって、中間管理職の人が、上司と部下の間に挟まれて、その上下の意見の食い違いに悩むのも、当たり前なのです。
 しかしながら、従来の中間管理職の立場ではうまく機能しなかった面があって、何らかの工夫が必要です。上下のどちらの意見に従うのが正しいことなのか、本当は個人的に判断できないはずなのです。かつての年功序列の社会では、上からの命令は絶対であり、それに従わなければ組織の一員として認められませんでした。しかし、今は変わりつつあります。その因習を断つために、NGOやNPOといった団体や協同組合などの組織に関わってみるのも一つの手段だと思います。
 要するに、上または下のどちらかに盲従するのではなく、上と下の意見の調整役をつとめることが大切なのです。調整役というと、組織の中心になって一人で何でも責任を負うことのように誤解されているかもしれませんが、実際は、その人自身と上と下とそれぞれが立場や役割を分担してやればいいことです。そうした調整ができれば、何でも一人で抱え込むことはないと言えます。そうしたことのできる人間関係を作ることが、組織を作ることなのですが、実際には「言うは易し」かもしれません。
 そういう私も、この件に関しては、今でも他人との間で間違いや失敗を繰り返しています。要は、私も相手もそうですが、お互い人間であるかぎり間違いや失敗は仕方がない。私が相手にそれを指摘されたら素直にそれを認めて、逆に、相手が間違えたり失敗したならば、結局それを許す心が必要なのだ、と思うことにしています。よくよく考えてみると、人間同士だからそれができるのだ、と思います。
 以上のことを、まとめてみましょう。他人と他人をつなげるのは、まず、他人すなわち人間であることが大切なのです。それが、人間同士の心をつなげる、いわゆる『中継ぎ』の役割を果たすということなのです。その役割を果たすために、人間同士のやりとりが必要となりますが、その過程での間違いや失敗や誤解などは、双方が人間である限り仕方がないことであり、それぞれに理念や理想はあっても、お互いにそれを押しつけないことが大切だということです。人間関係については、それほど深くならないとしても、それはそれで、まあまあの及第点だと思うくらいでいいと思います。
 かなり偉そうな理屈ばかり書いてしまいましたが、世の中の人間関係が希薄になったことを嘆くだけに終わって欲しくないな、と願うのが今の私の気持ちです。