アンドロイドはアハ体験をするようになるか

 いきなり映画『ブレードランナー』の原作小説のタイトルみたいな言い回しをしてしまいました。アンドロイドと言えば石黒浩教授、アハ体験と言えば脳科学者の茂木健一郎さんを思い浮かべると思います。世間一般的には、アンドロイドすなわち人造人間やロボットの類が、人間の高度な精神活動と同じことなどできない。できてもそれは、空(そら)恐ろしい事だと否定されてきたと思います。けれども、今回は、そんな一般常識とは、全く逆の話をしたいと思います。
 ずっと前のブログ記事でも述べたように、20代の私はコンピュータ・ソフトウェアの仕事と勉強をしていたにもかかわらず、人工知能に対しては否定的かつ懐疑的でした。その実用性(何の役に立つのか)と技術性(技術的に実現可能なのか)を疑っていました。ところが、そんな時にNHK教育テレビ(現在のEテレ)の市民大学講座(だったと思うのですが、間違いかもしれません。)みたいな番組で、徃住彰文(とこすみ・あきふみ)さんという人の話を聞いてから、人工知能に関する考え方がすっかり変わりました。(残念なことに、徃住彰文教授は、2013年に病で亡くなられてしまいました。ご冥福をお祈りいたします。)
 1980年代当時の日本では、国をあげて躍起(やっき)になって『人工知能』の開発と実用化を進めていました。しかし、その成果は、大したものが得られず残念の一言に終わってしまいました。事実、未だに鉄腕アトムは、マンガのフィクションの域を出ることができず、人間が理想と考える人工知能の性能にも私たちは到達できてはいません。
 そんな1980年代初頭に、徃住彰文さんは、スコットランドエジンバラ人工知能学を研究されていました。当時の英国の人工知能学研究は、日本の人工知能の実用的な開発とは違っていたそうです。人工知能を実用化することよりも、いろんな角度から人間の知能というものを眺めてその本質を解明していく研究が行われていたそうです。人工知能を人間社会に進出させて役立つようにすることよりも、そもそもどういう条件や仕組みの上に成り立つものなのかを探求することに重点が置かれていたように思われます。
 徃住彰文さんの著作には、「心の計算理論」とか「心の機械論(メカニズム論)」といった言葉が出てきます。テレビで見たあの講座番組でも、そのような言葉を私は生まれて初めて耳にしました。そして、本当に驚きました。
 これはどういうことかと申しますと、これまで人間の心や感情は、自然科学的には説明も解明もできませんでした。神が創造したものであるとか、霊的なものとして、科学の考え方では全く扱えなかったわけです。よって、人工知能などというものは、ロボットやコンピュータという機械も含めて、悪魔の仕業か人間を滅亡に導くものだとしてしか最終的には見られなかったわけです。
 しかし、近年の欧米の脳生理学の発達によって、そうした状況は変わってきました。それと同時に、コンピュータの技術的な発達もあいまって、人間の心や感情についても、科学的に考えられるようになってきました。その一つの結論として、人間の心や感情の仕組みが、コンピュータのプログラム、すなわち、ソフトウェアの仕組みに酷似している、ということがモデリング(模型化)の手法によって明らかにされました。つまり、人間の心や感情の働きは、コンピュータの演算あるいは計算によって再現できる、ということがわかってきました(心の計算理論)。また、人間の心や感情が、霊的にどこからともなく生じるものではなくて、ある種のメカニズムによって、すなわち、機械的に生み出されてくることが解明されてきました(心の機械論)。
 このように説明しても、大抵の人には違和感があると思います。1980年代から今日に至るまでも、こうした『心の計算理論』や『心の機械論』は、専門家たちから批判や異議を唱えられることが多かったようです。「人間の心の働きが、コンピュータの演算処理なんかでできるわけがない。」とか「人間の心や感情が機械から生まれてくるはずがない。」という、どう見ても固定観念的で感情的な批判が多いような気がします。もちろん、こうした批判が不正だとは申しません。しかし、だからと言って『心の計算理論』や『心の機械論』に不正があるとも言えないと、私は思います。
 当然のことですが、私は、人工知能搭載のロボットやアンドロイドに人間と同じような心や感情が生まれてくるとは思ってはいません。『人間と同じような心や感情』というと、普通はプラスの面ばかり考えがちです。が、当然マイナスの面もあるはずです。つまり、私たちは、高度な人工知能を搭載した彼らから、そのマイナスの面も受け入れなければならないわけです。
 そんなことを人工知能の発達に期待しているわけではなかったはずです。このようにおかしくなってしまったのは、私たち人間の側の考え方にあるような気がします。人間が心や感情を持っていることを自慢して、「だから私は人間です。」と見栄を張ってることがおかしいのです。
 いくら人間だからといっても、しばしば非人間的なことを考えたり、非人間的な発言や行動をしてしまうものです。思考停止して、機械的に物事をこなすことだって、私たち人間には誰でも経験があるはずです。人間にいくら感情があると言ったって、感情的になって悪い言動をしたり、誰かを憎んで自ら苦しむことだってあります。要するに、人間にとって、心とか感情というものは、「それがあるから、人間だ。」というものではなくて、「人間として生まれてきたために付いてきたおまけのようなものだ。」くらいに低く見たほうが良いのかもしれません。
 従って、『心の計算理論』や『心の機械論』は、人間の知能に対するそのような低次元の議論に対応できている考えであると、私は思うのです。人間の心や感情は、コンピュータの『ソフトウェア』という人間が目で見てわかるプログラミング言語で表現することができます。その心や感情の働きを、その『ソフトウェア』をコンピュータ上で動作させることによって何度でも再現することができます。ただし、その実用性は限りなくゼロです。コンピュータのプログラムは、人間の心や感情の振る舞いを人工的に表現しているだけで、様々な問題に応用できるような実用性があるわけではありません。つまり、人間の心や感情を、コンピュータのプログラミング言語の記述でモデル化(模型化)することに成功した、というのがその人工知能研究の骨子だったのです。
 徃住彰文さんの著書『心の計算理論』、および、井口時男さんと岩山真さんとの共著『文学を科学する』には、”DAYDREAMER”というコンピュータ・プログラムがあることが紹介されています。白昼夢を見ているような感性的思考を、コンピュータ・プログラムにやらせるとどうなるかという、実験結果が、入出力データ文の例示で説明されています。もちろん、このコンピュータ・プログラムの実用性はゼロです。決まりきった前提・質問データを入力して、決まりきった結果・回答データを出力しているだけです。しかし、人間の感性的思考の振る舞い・働きをモデリングして、それをコンピュータにやらせたらどうなるかを実験していました。
 実用的なコンピュータ・システムを開発してきた人から見れば、そうしたモデリングの目的でコンピュータのプログラムが利用されることに腹が立つかもしれません。よって、実用的なプログラムとモデル化したプログラムについて、どのように違うのか、また、その研究に不正はなかったのかを、記事を改めて詳しく説明したいと思います。
 ある日、私は、石黒浩教授のアンドロイド(人造人間)が、ショーウィンドウのガラス越しに、携帯電話のカメラを手にした小学生たちに「おーぃ。おーぃ。」と呼ばれている動画をYouTubeで見たことがありました。アンドロイド側は、視聴覚センサーである程度の情報はキャッチしていると思います。しかし、それらの情報がある程度知能的なプログラムで処理できないと、もったいないような気がしました。せっかく人間の形に似せて作られているのだから、反射神経的な反応しかできない機械では、私たち人間の側は満足できないかもしれません。少なくともアンドロイドの内面で自律的に考えさせることが必要かもしれません。そうすれば、そうした子供たちの目の前で、アンドロイドがアハ体験をすることも夢ではないと私は思うのです。
 このような私の考えは、(もしかしたら)正しくないのかもしれません。けれども、アンドロイドという機械の成長のために、そして、私たち人間の側がそうした機械にもっと興味を持てるようになるために、そのような仕掛けや工夫も必要なのではないかと思うのです。