胸キュンしない放課後の美術室

 私が高校二年の時に、こんなことがありました。その日の休み時間に、教室の隣の席から美術部のDさんが、私にこんなふうに声をかけてきたのです。「黒田くん。放課後に、美術室に来てくれませんか。…きっと、来てくださいね。」
 私は、えっ、と思いました。放課後の美術室に何があるのだろうか、と思いました。それまで、私は、教室で隣の席にいたDさんとは、何の話もしたことがないし、何の関心もありませんでした。当時私の高校は、制服が無く、私服が許されていましたが、Dさんは白いシャツと紺のジャンパースカートを身につけた、そんな目立たない装いの、地味で少し真面目そうな、顔にソバカスのある人でした。
 ともかく、私は、放課後の美術室に行ってみるしかない、と思いました。そこに何が待っているのか、全く見当がつきませんでした。私は、その学年で、美術を選択科目としてとっていたので、授業の時間に美術室へ行ったことがありました。けれども、授業の時間以外にそこへ行ったことはありませんでした。おそらく、放課後は、美術部がそこを利用してクラブ活動をしているだろう、ということくらいしか知りませんでした。
 その日の放課後に、実際に美術室に行ってみると、そこには黒田M子さんが、机上で何かを描いていました。私は、その時どういうわけか、彼女が黒田M子さんであることを知っていました。小学校、中学校、高校、大学を通じて、私の同じ学年には、黒田という苗字の人は珍しくて、高校時代の黒田M子さん以外には一人もいませんでした。しかも、彼女とはクラスが一緒になったことがなく、私のクラスの中で『黒田』というと、いつも私一人を指していました。
 私は、その時、黒田M子さんとは初対面でしたが、そのような理由があったので、「黒田M子さんですね。僕も『黒田』と言うんですが…。」と声をかけました。すると、彼女から「ああ、知ってますよ。黒田くんですよね。」という言葉が返ってきました。
 けれども、それが私と彼女との最初で最後の会話となりました。残念ながら、お互いに、それ以上の興味がわかなかったからです。同級生に『黒田』という苗字の生徒がいる、ということに興味があっただけだったのです。
 私の側から見ると、実際に話しかけた黒田M子さんは、少し残念な感じがしました。16、7歳なので、顔のお肌にツヤがあって、決してブスには見えなかったはずです。彼女も、やっぱり白いシャツと紺のジャンパースカートを身につけていて、ちょっと地味でオバサンっぽく見えました。実は、私の心の中では、私と同じ苗字のその同級生が、不思議ちゃん系の服装をした、デザイン的にもいかにもユニークな美術部の女子生徒であることを期待していました。しかし、実際に私が会った彼女は、全然そんなふうではありませんでした。
 すると、ソバカス顔のDさんが、少し大判のキャンバスに描かれた絵の前に来るように、と私に言いました。「黒田くん。私がこの絵を描いたんだけど、みてくれますか。」「どう思う?」みたいなことを、私に言いました。
 Dさんが描いたというその絵は、こんなふうな感じの油絵でした。中心に下を向いた少女の姿があって、そのすぐ右側には、大きな体格のつめ襟の制服を着た男性が、正面を向いて描かれているという絵でした。Dさんの話によると、その男性は、頭を垂れて髪の毛がその顔を覆い隠している少女の、その先輩の男性なのだそうです。その人物二人の背景となるものは、ほとんど描かれておらず、白い空白のままでした。
 私はその油絵を見て、「Dさんはこんな絵を描くんですね。」と、Dさんに言いました。そして、その時に、Dさんが私を放課後の美術室に来るように誘った、その本当の理由がやっとわかりました。彼女は、自らの描いたその油絵の芸術作品を私に見せたくて、私を誘ったのです。ただそれだけの理由だったのです。
 私は、そのことがわかって、少しがっかりしました。けれども、そんな素振りはDさんに見せないようにしました。ちょっと、その絵に関心があるようなふりをしていました。でも、それは、褒(ほ)め方が足りなかったり、感動した様子が余り見えなかったために、Dさんには少しバレていたようです。Dさんは、私がびっくりして跳び上がるほど感動して、興奮してほめちぎってくれることを、私に期待していたのかもしれません。あるいは、自前の作品をみてもらいたいという、その魂胆(こんたん)が見え見えで、そんな彼女自身を恥じてしまったのかもしれません。二度と私に、自作の絵を見てくれるようにと誘ってくることはありませんでした。
 私は、三年生になって、クラスの人員替えがあっても、Dさんと同じクラスになりました。けれども、私が真面目でお人よしだったせいもあって、Dさんと一度も関わったことがありませんでした。
 今になって思い返してみると、Dさんという人は、学業成績はそれほど良いほうではなかったけれど、マイペースな女子だった感じがします。三年生になって、私たち同級生のほとんどが大学受験のためにクラブ活動をやめてしまっても、放課後にあの美術室には出入りして、クラブ活動に参加していたようです。また、私の同級生同士のうわさ話の中で、Dさんの卒業後の進路についてどうなったのかを知りました。Dさんは、デザイン美術系の短期大学へ行くことになった、とのことでした。進路の選択に高望みをしないで、あくまでもマイペースを貫いて、己(おのれ)の好きな道を選んだ感じがします。
 私は、そんなDさんにそれほど恋愛感情のようなものを抱きませんでした。けれども、それほど勉強が好きでなくても、絵を描くのが好きで、他人にその絵を見てもらいたいという欲求の強い、そんなDさんに、私は、人間としてのある種の魅力を感じました。
 私の思い出の中では、胸キュンはしなかったけれども、Dさんには、そうした人間の面白さが感じられるのです。