現代日本の知らない『おもてなし』の心

 今から二十数年前のことです。私は、ふと一枚の古びた写真を押し入れの中から見つけて親に見せました。それは、私の祖父と、その腹違いの二人の兄弟と、その共通の父(つまり、私の曽祖父)の四人が並んで写っている写真でした。私は、その写真を見て、私の曽祖父・黒田重治郎の暮らしていた長野県信濃町の柏原に行ってみたい、と父に言いました。すると、私の父は、イヤなそうな顔をして、「遠い親戚は離れていくものだから、今さら行ってどうする。」と言って、私の意向を受け入れませんでした。しかし、当時の私は何も事情を知らなかったので、そんな父を渋々承諾させて、その柏原にある黒田の実家へ行って来ました。
 それは、小林一茶の住居(一茶堂)の近くにありました。そして、驚くべき発見がありました。その家の中の、部屋の間取りが、東京の私の実家とそっくり同じでした。その時は、どういうわけだかわかりませんでした。けれども、東京の家は、私の祖父がその間取りを決めたそうです。私の祖父が、柏原の家の間取りを真似て、東京の家の間取りを決めたとしか思えなかったのですが、既に亡き祖父にそのことを聞くことはできませんでした。
 私の父は、実は、その実家へ行ったことがありました。それは、(今から70年前の)戦時中で、疎開先として、その柏原の家の親戚にお世話になったそうです。当時小学生だった私の父は、そこで、余り親切に扱われず、イヤな思い出ばかりだったようです。だから、私がそこへ訪ねてみたいと言った時、あまり気が進まなかったのだと思います。確かに、そこの親戚の人に初めて会って、私もそれがどういうことだかわかりました。
 黒田の家の特徴として、不機嫌になった時のものの言い方が陰険でした。私の祖父も同じだったのですが、それとそっくり同じでした。ああいう言い方を、私も、家の中で聞いたことはありましたが、家の外の他人からは言われたことのない口調なので、すぐわかりました。東京から疎開してきた私の父も、黒田の実家のおじさんやおばさんの不機嫌さやその言い方に、イヤな印象を受けていたのでしょう。
 それまで私は、東京の私の実家の家族の悪い点は、「東京の唯一ここだけのもの」と思っていました。ところが、長野の信濃町柏原の実家を訪ねてからは、「黒田の家族のルーツはここのあったのだ。」と思うようになりました。良くも悪くも、黒田のルーツは、そこにあったのです。
 ところで、二十数年前に訪ねて行った時に、私は野尻湖博物館に連れて行かれました。その帰りの車の窓から、野尻湖湖畔の雑木林の中に無数のペンションが見えました。私は、親戚のおじさんに、何か質問をしました。すると、以下のような話を聞くことができました。
 実は、野尻湖周辺は、昔から日本の避暑地として有名だったそうです。日本人よりも、外国人によく知られていたのだそうです。(今でも、そうなのかもしれません。)私が訪ねた頃は、10月だったので、オフ・シーズンで閑散としていました。しかし、夏場になると多くの外国人が訪れて、湖畔の多くの宿屋も一杯になって、あたりはにぎやかになるそうです。
 私の曽祖父の黒田重治郎が生きていた頃は、そのペンションの集落には、最初イギリス人が多かったそうです。そのうち、アメリカ人が多くなり、戦時中までは、ドイツ人が多く来ていたそうです。明治末期・大正・昭和初期の世界の繁栄を象徴するかのような人たちの移り変わり、と言えるかもしれません。
 しかし、当時の野尻湖周辺には問題がありました。当時の日本では、現代のように、物流が発達していませんでした。しかも、現代のように畜産業も発達していませんでした。従って、こうして日本の避暑地に集まってきたものの、動物性タンパク質を彼らは十分に口にすることができませんでした。家畜の肉などで供給されるべき、動物性タンパク質が圧倒的に不足していました。
 当時、信濃町の名士の一人であった私の曽祖父・黒田重治郎は、近隣の農家が養鶏をして得ていた卵を一つ一つかき集めて、困っていたそうした外国の人たちに配ってまわっていたそうです。別に、このことで黒田重治郎を自慢するわけではありませんが、そんな話に私はちょっと考えさせられました。
 最近、外国人に対する日本の『おもてなし』と、しばしば言われます。けれども、それは単にサービスというだけではなかったように私には思えるのです。重ねて言いますが、私の曽祖父の過去の行いを自慢するわけではありません。けれども、困っている人を助けるのに、国境も何も関係ないのだな、と感じさせます。ちなみに、私の曽祖父は日本語しかしゃべれなかったそうです。おそらく、当時の世の中で『人の気持ち』がわかった人だったんだな、と私は想像しています。