中継ぎは不要?

 世の中の流れに従って、廃(すた)れていくものの一つとして、私は或るものに注目したいと思います。一つは、会社組織の中の中間管理職です。もう一つは、従来の流通システムの中の卸売業です。この両者は、一見すると別物のように考えられますが、傍(はた)から見ると共通点があります。いわゆるこうした『中継ぎ』が、組織やシステムの経済的な合理化・効率化から不要と考えられ、省かれるものと考えられてきました。
 それほど大きくない会社組織は、社長の下に社員は横並びとなり、彼らの給与(サラリー)は、実力裁量性となりました。そのシステムでは、中間管理職は不要になり、社長と社員の意思疎通は、従来よりも良くなった、そうです。中間管理職が必要でなくなった分、会社組織にかかる経費(コスト)も浮いて、経済的な合理化ができた、ということです。
 また、中間卸売業についても、似たようなことが言えました。例えば、農産物の生産者と消費者の間を結ぶ物流を合理化して、量販店や大規模な直売所は、多くの消費者を獲得することに成功しています。いわゆる『直販』です。流通・販売システムの合理化が、経費の削減と利益の増大をもたらしました。
 私自身の経験としては、40代に就農して、農産物の生産者の立場になった時に、こんな疑問を持ったことがあります。どうして、中間卸売業があるのだろう、と。卸売市場があることさえ、疑問でした。今考えると極端な考えでしたが、農家が直接お客に売ればいいじゃないかと考えていました。流通・販売の合理化と同じような効果を期待していました。
 また、私はサラリーマン時代に、中間管理職を二度ほど経験しています。同じ会社に三年以上勤続していると、少しばかり手当をつけられて、主任とかの中間管理職を持たされるようでした。担当の仕事は今まで通りこなさなければならなかったので、当時の私はすすんで受け持ちたくはなかったのですが、会社の意向なので仕方なく受け持っていました。
 ところが、それはとんでもない事態を引き起こしました。上の人の命令を下の人(バイトの人)にうまくやらせなければなりません。下には下の立場があって、その命令に従わないことで、私の指示が悪いことにしてしまうことが多発しました。同時に私は、従来任されていた仕事もしなければならなかったので、ある程度バイトの人に自由と責任を持たせて、仕事を任せていました。すると、そのバイトの人が、私の上司の部長さんに「黒田主任は自由放任で無能です。」と告げ口しました。それ以来私は、中間管理職には不適任とされました。
 その後、間もなくそのバイトの人は、業務成績の悪さがばれてクビになりました。私よりも年齢が若く学歴が上だったのに残念なことでした。上司の部長さんも、そのバイトさんに期待を寄せていた分、私よりもがっかりしたようでした。
 こうした経験から、当時の私は学びました。中間管理職に、私は向かない。上司と部下の板挟みにされて、私自身の勤務に支障をきたすだけだ。一般的に言って、中間管理職など、会社組織の上と下の板挟みになって、個人としても会社としても何も利益が無いならば、いずれなくなってしまうだろう、と。
 こうした『中継ぎ』は、社会のシステムからは不要なのかもしれません。実際、世の中の流れは、そのようになりつつあります。最近は、中間管理職とか中間卸売業という言葉さえ、日常ではほとんど聞かれなくなりました。経済的に合理化・効率化したことからすれば、社会のモラルに違反することもなく、それで、めでたし、めでたしです。(最近私は、本当にめでたしかどうかを疑い出しています。)
 現代の私たちは、経済的な合理化によって、昔に対してより良いものを求めてきたはずです。しかし、どこかでそのことの検証を怠(おこた)ってしまったために、どうすることもできない困難に直面してしまっているようなのです。表面上は、問題がないように見えるかもしれません。しかし、現代の社会は、サイレント・キラー(忍び寄る殺し屋)を明らかに見逃していると思います。それは、今も私たちの心をひそかに虫ばんでいるように思えます。(次回の記事に続く)