私のプロフィール 受験生と社会人

 最近、大学の受験シーズンのことをテレビやネットで時々聞くようになりました。多くの人にとって、学校などの受験勉強は、若い頃にしかできない貴重な経験と思われているかもしれません。受験生の時のような気分は、社会人になったら経験しなくてもいいだろう、と考えていたはずです。若い頃の私もそう思いながら、やがて学校を卒業して、会社に入社して、社会人になったのです。
 ところが、私の場合、コンピュータのソフトウェア開発会社でプログラムを作る仕事をしていたら、電子専門学校卒の一年上の先輩の一人が「マイコン利用者認定試験を受けてみないか。」と勧誘してきました。私は、当時の通産省情報処理技術者試験のことは知っていましたが、仕事が忙しくて試験を受けるどころではありませんでした。そんな私に、その先輩は「せっかくマイコンを取り扱う部署の仕事をしているのだから、勉強して試験を受けてみたらいいよ。情報処理技術者試験よりも簡単な問題が出るらしいよ。」と教えてくれました。
 当時は、そのマイコン利用者認定試験に合格しても、会社が会社だけに(つまり、コンピュータ・ソフトウェア開発会社だったので、そうした資格を持っている人がザラにいたので)給料に全く影響がありませんでした。しかし、当時の私は、コンピュータやそのソフトウェアの技術のことについて余りに知らなくて、周りから甘く見られていました。実務においても、キャリアと知識の無さを見透かされて、見くびられることがしばしばありました。従って、その試験に合格することは勿論のこと、それらの技術のおおもとを学んで身につけることを、当時の私は目指していました。
 実際には、その親切な先輩が言っていた通り、3級と4級は簡単に合格できました。しかし、2級はその知識が1ランクも2ランクも上で、その先輩でさえ試験に落ちてしまいました。難易度は、当時の通産省情報処理技術者試験の第一種と第二種との間くらいのレベルだったそうです。私もその試験を受けてみたのですが、奇跡的に合格しました。
 すると今度は、1級の認定試験の案内が来ました。それは小論文の記述試験で、題目が決まっていました。「人工知能について述べよ。」という問題でした。当時の日本では、「人工知能」の研究開発のために国が巨額の資金をつぎこんでいました。しかしながら、その成果は、郵便番号のパターンを認識することにしか実用化していなかったようです。マイクロ・コンピュータを利用する者にとっても、「人工知能」は確かに夢と希望を与えてくれるテーマの一つではありましたが、その技術的な実現、あるいは、その夢と目的が、当時の私の心の中ではモヤッとしていました。エキスパート・システムがあることくらいは知っていましたが、「人工知能が、どうやって技術的に可能になり、実用化するのか。」ということへのメドが一般的にも立っておらず、当時の私にとっては扱いにくい問題に思えました。また、「人工知能が仮に実用化したとして、世の中に対して一体どのような利益やメリットを生み出せるのか。」ということへの答えが、当時の私には全く思い浮かびませんでした。よって、私は、その1級の認定試験を受けることを断念しました。
 確かに、マイクロコンピュータのハードウェアとソフトウェアによって、人工知能っぽい、それに近いことを何らかの機械にさせることは出来ると思いました。しかし、厳しい現実を言うと、人間が「人工知能を簡単に作れる」と勝手に感じたり思っているだけだったのかもしれません。つまり、それは現実には人間の勝手な想像力で補われていることが多くて、コンピュータ自体が人工知能を身につけているわけではなかったと、私は思うのです。21世紀の初めに『鉄腕アトム』と同じ性能のロボットが誕生しなかったのも、そこのところが曖昧だったからだと考えられます。かつて、AIBOというロボット犬が流行ったことがありました。けれども、人間自身が、その機械(ロボット犬)に対して思い入れがなかったり、関心がわかなかったら、あれほど人間から可愛がられなかったと思います。
 もしも仮に、そんなことを私が試験の小論文に書いたりしたら、試験に失格することは目に見えていたことと思います。おそらく、その題目の出題者は、マイクロコンピュータ・システムが人工知能の開発に現時点でどれだけ貢献できるか、どれだけ将来性を広げていけるかを、想像力豊かに小論文で書いてもらいたかったはずです。マイクロ・コンピュータ利用者の夢と未来を、文章で綴(つづ)って欲しかったはずです。当時の私が、その試験を受けることを自発的に辞退したのは、そのような問題を出題してくれた人への配慮があったからだと思います。私自身の想像力の無さを棚上げしつつ、その出題者の希望や期待を裏切るようなことを書きたくなかったと、私は自ら言いわけしていました。
 言い換えれば、その試験問題は、正解の無い問題だったのではないか、と私には思えました。正解に限りなく近い解答はあったかもしれません。しかし、○か×かが明らかな、いわゆる『正解』というものが無い種類の問題の一つであった気がします。強いて言えば、このような問題は、マイクロ・コンピュータの利用者のセンスが問われていたと考えられます。もしも、万人が唸(うな)るようなアイデアを解答に書いた人が多数いたとしたら、マイクロ・コンピュータに関連した日本の業界は今ごろ世界一になっていたかもしれません。
 本題から、だいぶ反(そ)れてしまいましたが、十代の頃の私は、大人になって社会人になったら、試験を受けることなどなくなると思っていました。学校の中間試験や期末試験や小テストなどからも解放されるし、高校や大学に入るための受験勉強からも解放されると思っていました。しかし、実際に社会人になってみると、いろんな資格や免許が必要になって、そのための勉強を自らしなければならなかったりしました。みごとに当てがはずれたわけです。
 勉強をしないで試験に合格したりする人の話をたまに耳にしましたが、私の場合はその話を疑うことが多かったようです。なぜなら、資格の肩書きはあっても、それに伴う実力や知識が身についていなければ、良い結果につながりにくいのではないかと思われたからです。従って、私は試験を受けるために一生懸命に勉強しました。それでも、試験の結果が上手くいかなかったこともあります。そんな時は、「一生懸命やったのだから仕方がない。」とあっさり諦(あきら)めがつきました。
 一般に、人は、試験やテストに合格するという目的のために勉強をするものです。でも、その勉強の途中のプロセスでいろんな知識や考え方を身につけるということも、実は、大切なことなのです。それは生きる姿勢(スタイル)として、受験生であった時だけで終わらせないといいことなのかもしれません。それとは反対に、大人になっても学生気分の抜けない人がいますが、学生の頃にそれを何かと間違えて身につけてしまったことに早く気づいて欲しいものです。それよりも大切なことを身につけて、社会人になっても忘れないことです。それはきっと、将来その人自身を助けてくれる、何らかの役に立つ道具となりえるかもしれません。