その悪夢の正体を探る

 今回は、ウルトラセブン第43話『第四惑星の悪夢』のお話しを致しましょう。実は、この放送回も、着ぐるみ怪獣や宇宙人が、主人公のウルトラセブン以外に登場いたしません。それどころか、正義のヒーローのはずのウルトラセブンが、第四惑星で巨大化して大暴れを致します。大きな統合ビルを破壊し、地球侵略に向かう兵器群(第四惑星の地球侵略部隊)あるいはその軍事基地を一方的かつ徹底的に破壊してゆきます。
 一体、何が起きたというのでしょうか。それは、スコーピオン号テスト飛行でダンとソガ隊員の長期睡眠中に見た夢か幻だったのでしょうか。それとも、地球から遠く離れた場所(第四惑星)で起きた現実だったのでしょうか。一体それは、現実なのか、それとも、悪夢なのか。それは、定かではありません。現実と思いきや、それは悪夢だったかも知れず、悪夢と思いきや、それは現実だったのかもしれません。どちらにしても大切なのは、想定外の出来事に対する常日頃の危機意識、すなわちリスク管理なのでしょう。
 計器類や全自動システムの故障なのか、それとも人間が見逃している機械システムの性(さが)なのか、それとも、地球からはるか遠くの第四惑星の優れた科学技術による誘導なのか、はっきりしませんが、スコーピオン号というロケットは宇宙で制御不能になります。それにもかかわらず、地球に帰還できたソガ隊員は、こうつぶやきます。「俺は見たんだ。…ロボットの長官…処刑される人間…」と、第四惑星で目撃した悪夢のような現実を振り返ります。そして、ダン隊員までもが、そのことを否定しようとはしません。「ロボットが人間を支配している」という第四惑星の、その信じがたい現実を、ウルトラ警備隊の他の隊員たちに伝えようとするダンとソガ隊員なのですが、なかなか信じてもらえなかったようです。
 キリヤマ隊長も、地球防衛軍のさらなる電子計算機システムによる合理化の方向を示し、「みんな、楽になるぞ。」などとおっしゃっていました。ダンとソガの両隊員に対しては、「疲れてるな。ゆっくり静養でもしてこい。」と勧めておられました。悪夢なのか現実なのか区別のつかない、その第四惑星の問題は、いくら考えてみても結論は出てこないのです。少なくとも今は、そのような恐ろしい侵略から地球が守られていることと、そして、その平和な地球の幸運と幸福を、各人が噛みしめて生きていくことが大切なのだ。そういうメッセージが、ナレーションなしのラストシーンで、暗黙に語られているのかもしれません。…

 確かに、このドラマは、それで終わっています。しかし、それでめでたし、めでたしとするには何か物足りないと、この放送回をレンタルDVDで何度も観ながら私は思いました。すると、(余計なことだったかもしれませんが)その悪夢の正体を知りたくなりました。確かに、コンピュータやロボットなどの機械に人間が支配されるような未来を想像することは、恐ろしいことです。しかし、本当に恐ろしいことは、コンピュータやロボットなどの機械そのものではないということに、私たちは徐々に気づいてゆくはずです。
 第四惑星のロボットの長官(歯車が脳内にぎっしりと詰まった官僚)や警察の長(と言っても、軍人)や、そっけない人々(実は、地球人をかくまうと死刑にされると脅されている)や、日常化された『人間どもの死刑』(ロボット支配層による人間の殺戮)や、人間の消耗品化(第四惑星においては、人間はエネルギー資源と見なされている)などなどを観て吟味してみると、そのクレイジーぶりに恐怖を覚えます。日本の過去の軍国主義や情報統制や治安維持の記憶と、それらは重なるところがあるからだと私は思います。
 つまり、本当に問題なのは、第四惑星を統治するロボットの長官らが「人間の命や心を無視した冷酷な政治指導者」になっているという点です。コンピュータシステムによって政策方針やロボット市民たちの健康管理までされている一方、『人間』は彼らの国のエネルギー源、すなわち、消耗品扱いなのです。そして、それが枯渇する未来を見据えて、地球侵略によるその補充(地球の植民地化、および地球人の奴隷化)を考えています。そのような狂気の発想を私たちが笑って済ますことができないことに、本当の恐ろしさがあります。
 また、そのロボット長官と行動を共にしている、第四惑星の『警察の長』なる者も、さらに問題です。常に口の中でアメか何かをこりこりさせつつも、手にムチをたずさえています。ジープに乗って、軍服で小銃をかまえるその部下たちと同様、警察官というよりも将兵です。第四惑星の『警察』は、無表情で問答無用の兵隊集団です。そして、何の罪もなさそうな人間たちを、次々と拘束しては銃殺刑にしています。
 その『人間どもの死刑』は、ロボット長官の言によると「『人間もロボットらしく生きるべきだ。』と主張する連中でね、A級の政治犯だ。」とのことでした。字面(じづら)だけでは理解できないかもしれないので、以下に解説しておきます。その第四惑星では、人間がロボットの支配を受け入れました。それによって、人間の地位は、支配側のロボットたちよりも下になりました。2000年くらい前までは人間が社会で地位や権利を獲得していて、人間らしく自由に生きてゆけたのですが、ロボットに支配されてからは、それができなくなってしまったと考えられます。今や、『ロボットらしく生きる』ということが、第四惑星では「支配的な地位の側になって自由に権利を主張して生きてゆける」という意味になっていたのです。言い換えれば、「『人間も、支配側のロボットと同じ権利で生きてゆけるべきだ』と主張する人間たち」が、支配側にとっては邪魔な存在だったわけです。
 「だからと言って、そんなふうに人間を殺すことなんかないじゃないか。」とか「そんなふうに人間たちを脅して暴力で支配することなんかないじゃないか。」と、多くのみなさんは思うかもしれません。しかし、政治的かつ軍事的に支配する側からすれば、同等の地位や権利を主張する『人間』ほど扱いにくいものはないと判断するのが、当たり前なのです。たとえそれが、普通の一般人(民間人あるいは非戦闘員)であっても、当然そうなのです。このドラマの中で処刑される人間たちの姿や服装に着目していただくとわかりますが、第四惑星で銃殺刑にされる人々はみんな、そのような、ごく普通の民間人だったのです。
 こうした、人間一人一人の命や心を尊重しない政治的支配がどれほど恐ろしいものであるかを、日本の1960年代のSF特撮テレビドラマの一つが描いていたということは、驚きに値します。現代世界に欠けつつある、その豊かな想像力と問題意識に、改めて敬意を表したいと私は思いました。みんなの幸せ(公共の福祉)あっての個人の尊重であり自由であると、致しましょう。仮にそうだとするならば、その当たり前すぎることを、その第四惑星の2000年くらい昔の人間は、ロボット(機械)の頭脳に吹き込むことを忘れていたのかもしれません。あるいは、本来人間の持っている残虐でダークな発想が、ロボット(機械)の頭脳に暗黙のうちに引き継がれてしまったとも考えられます。とにかくそれは「何から何まで計算通り」ではありますが、まどろっこさや面倒くささを排除した、人間一人一人の心や命のことなんかには配慮しない、機械的な冷酷さを感じさせます。