『2年Z組』について思うこと

 前回、私はブログ記事において、高校時代のクラスの雰囲気が、テレビドラマ『美咲ナンバーワン!!』の2年Z組に似ていると書きました。正確には、当時の都立足立高校全体が、その『2年Z組』だったのです。誤解があるといけないので、初めに断わっておきますが、それは決して私が母校を蔑(さげす)んで言っているのではありません。
 『美咲ナンバーワン!!』というテレビドラマでは、六本木No.1の元キャバクラ嬢だった美咲先生が、御堂(みどう)学院という高校に教師として就任します。その御堂(みどう)学院高校というのは、中高一貫校でしかも文武両道の名門校という設定になっていました。ところが、その中で、学業成績が落ちていって、登校拒否になるくらいに落ちこぼれになる生徒たちが出てきたので、高校2年にZ組という、彼ら落ちこぼれだけを集めたクラスが作られました。美咲先生は、その落ちこぼれ生徒たちのクラスを担任することとなったのです。御堂学院高校は、さすがは中高一貫の名門校だけあって、生徒の身なり服装は、学校の制服できちっとしています。しかし、2年Z組の生徒たちの服装は、各人がバラバラの着こなしで統率がとれておらず、その体(てい)をなしていません。名高達男さんの演ずる、学校側の理事長としても、この2年Z組は、いずれはクラスを廃止して、そのクラス全員を退学させる方向で考えていたようです。
 2年Z組の彼ら生徒たち一人一人が、どうしてそのような落ちこぼれになってしまったのか、その理由はどうであれ、その結果は厳しい現実を突きつけられていました。学歴によって管理されたこの社会において、彼ら落ちこぼれ生徒の味方をする大人は一人もいないという事実を、彼らは甘んじて受け入れるしかなかったのです。
 彼ら生徒の一人、藤ヶ谷太輔さんの演ずる九条一真(くじょうかずま)は、第2話でこんなことを言っています。「あの(酒屋の)おっさんに言われたよ。どうせ俺らは、誰にも相手にされないまま、ろくでもない人生を送るに決まってる、ってさ。」ここで、『あのおっさん』とは、宇梶剛士さんが演ずる、街の酒屋のご主人のことです。第2話のドラマのゲスト出演者でしたが、体が大きくて、口が悪そうな人物のようでした。不良で落ちこぼれの彼らに、本当はそういう大人になって欲しくなくて、そう言ったのです。けれども、九条一真とその仲間たちにとって、それは、大人たちがみんな彼らの敵であることを改めて思い知らされる、キツい一言(ひとこと)だったのです。
 ここで、私は、10代の若い頃の、私自身のことを思い出しました。身近な大人であるはずの、親に何を話しても理解されず、誰も大人は、私の言うことを真面目に受け取ってくれませんでした。若い頃から私は、グレることも、不良になることもできず、悶々とした日々を送っていました。そして、大人のやることなすことにケチをつけだして、大人をみんな反面教師と見なしていました。そうした心の乱れは、身なり服装の乱れとして現れて、ドラマの彼らの身なり服装よりも、もっとひどい格好の服装をして学校に通っていた時期もありました。
 だから、私には、落ちこぼれ高校生の一人である彼の、その言葉の意味するところが、痛いほどよくわかるのです。もちろん、高校時代の私は、不良でも落ちこぼれでもありませんでした。けれども、知らず知らずのうちに、不良あるいは落ちこぼれが抱くような『負の意識』を植えつけられていたのです。その意識あるいは心の闇から、誰も救ってはくれませんでした。
 現在の私自身は、あの頃と少しも変わっていないのかもしれません。40代を前にして、結婚もできず、サラリーマンも辞めてしまいました。都会から地方に下って、農業でギリギリの生計を立てています。学力(実は学歴)で他人にかなわない部分を、体力でカバーしようとしています。そんな私は、いまだに、社会に対して反抗的なのかもしれません。文字通り『誰にも相手にされず、ろくでもない人生を送っている』のかもしれません。
 少なくとも、そうした意識はあると思います。しかし、だからと言って、自らの人生に絶望したり、落胆したり、他人を恨んだり、誰かを殺したいと思ったりしません。たとえそのような精神状態になったとしても、「そんなことを考えるなんて、何て自分は愚かなんだろう。」と、そうした自分に反抗もしくは抵抗する自分自身が必ず現れるからです。
 人間として一番怖いことは、「間違った自分自身に反抗できるのは、唯一、自分自身だけだ。」ということを知らないか、あるいは忘れていることです。つまり、この何もかもが管理された社会で従順にやってきたきたのだから、自分自身の良い所も悪い所も正当化して、「何をやっても許される」と考えることです。このように、自分自身に対して自分自身がイエスマンになってしまうことほど、危(あや)ういことは他に無いと思います。
 しばしば、周りに反抗的な人間や、他人の言うことに従わない人間は、社会の敵のように言われます。けれども、本当は違うと思います。最初から反抗的で、他人の言うことに聞く耳持たないのは問題ですが、そうではなくて、どう考えてもわからない、あるいは納得できない疑問をかかえて、社会や大人に対して反抗的になってしまう彼らは、社会(あるいは大人)にとっての害悪ではないと思います。
 一方、体面とか世間体とかいうものは、そうしたことを許さない、というのも事実だと思います。大人の社会というものは、それが当たり前なのです。その当り前をわかった上で、さらに一歩前進することが、私たち大人には課されているのかもしれません。
 だいぶ話が滑ってしまいましたが、このテレビドラマで2年Z組という虚構が成り立つ背景を、以上のごとく私なりに考えてみたわけです。
 教師たちから『2Zの連中』と呼ばれる彼らが、何か不安定な印象を与えるのは、学校の制服がちゃんと決まっているにもかかわらず、それに個々のアレンジが加えられて、生徒一人一人がバラバラに見えることが原因だと思います。このことが、服装が自由だった、高校時代の私の母校にも、同じように感じられました。
 私の母校にも、京都への修学旅行が2年生の3学期にありました。私たち生徒は、いつもの普段着で京都へ行きました。ところが、あるお寺へ入って、お坊さんの説教を聞いていたら、カチンとくるようなことを言われました。「あなた方は、服装がバラバラで、精神もバラバラで、とてもけしからん。こんなことでは、ろくな大人になれませんぞ。」私は、その通りかもしれないと思う一方で、反発を覚(おぼ)えました。もちろん私は、自らの正当性を説明できるほど、人間として成長していませんでした。けれども、その不満をぶちまける対象を見つけることができませんでした。したがって、あの頃は何よりも悔しい思いをしました。
 それはさておき、そうした劣等感や『落ちこぼれ意識』を若い頃に持っていたことは、人間として屈辱的なことではなかったことに、今さらながら気付かされます。人前で、天狗になったり、または、無理に自己を正当化してみせる必要が無いことを、あの時に学んだのだと知りました。
 一人一人がバラバラで、それぞれに違った個性があることは、人間社会では、本当は当たり前のことなのかもしれません。それを、統一がとれていないとか、統一がとれていないとダメだとか考えるほうが、ある意味では、その人の思いあがりなのかもしれません。
 最近、これまでとは違った情報を得て、少しだけ私の考えが変わりました。今から5、6年前に、私の高校時代の同期会が開かれていたという情報を知りました。その参加者は、卒業生全体の10分の1くらいと少なかったようです。それだけ、私の高校時代の同級生は、この社会でバラバラになってしまった、ということなのだと思います。
 私の目から見ると、高校時代の同級生は、個性の強い人が多かったような気がします。ですから、もしも、彼らの前で私がカラオケなんかを歌うことがあったとしたら、SMAPの『世界に一つだけの花』を歌ってあげたいと思っています。そうして、彼らが人生で経験してきた様々な労苦を、少しでもねぎらってあげたいと思うのです。