私のプロフィール 失われた才能

 何ヶ月か前に、テレビで親が子供の才能を伸ばす方法がテーマになっている番組を見かけました。どんな才能を子供が身につけるか、とても興味しんしんで、わくわくするテーマだと思いました。しかも、その才能は、子供にとって一生の財産のように考えられていました。それは、親から引き継いだらば、もしくは、一度獲得したらば一生消えない、もしくは、決して磨耗しない財産のように思われていました。でも、はたして、それは正しいことなのでしょうか。私は、この点を疑ってみようと思いました。
 確かに、長い一生を終えるまでその道の巨匠または天才として素晴しい業績を残す人がいることも事実でしょう。でも、場合によっては、その人生の途中で才能の行き詰まりや挫折を経験したり、能力が変質してしまうことも、現実としてはありうることです。
 『三つ子の魂、百まで』という諺があるのは事実です。幼児の頃の性質は、年をとっても変わらないのだそうです。良いことばかり考えていると、とんでもないことになりそうです。どもるクセのあった人は、一生どもっていなければなりません。おねしょうばかりしていた人は、一生おねしょうすることになりそうです。現実的に考えれば、そうした幼児の頃の性質は大人になれば直ることが多いはずです。つまり、私たちは一般的に『三つ子の魂、百まで』という諺を信じすぎていたようです。
 私は、このことで誰に対しても批判する権利を持っていません。その代わりと言っては何ですが、私自身の体験談を話したいと思います。私は、小学生の頃、一生を左右するくらいの大切な才能を失いました。それは、絵を描(えが)く才能でした。当然のことですが、絵を描く時は絵の具またはクレパスで色を表現します。絵の具の色を混ぜたり、クレパスで色を重ねたり並べたりして、キレイな色やその配色を作ります。私は、その才能を持っていました。しかし、ちょっとしたことでその才能を無くしてしまいました。
 それでも私は、小中学生の時、絵を描くのが得意かつ好きでした。ピカソとかいろんな有名な画家の絵を見て、私なりに真似をして表現してみたり、プライベートな時間に創作をするくらい、絵を描くのが好きでした。図画工作や美術の成績は5の評価のことが多かったのです。
 ところが、小学5年生の2学期から小学校を卒業するまでの期間だけ、図画工作の成績は4の評価が続きました。図画工作は、小1から小3までは担任の先生の受け持ちでした。作品は残っていませんが、写生会でよく金賞か銀賞をとっていました。小4から小6までは専任の先生が一人いて、図画工作室に児童がクラスごとに移動して授業を受けました。
 その先生のことを少し説明しましょう。そのI先生は、俳優の天本英世さんにそっくりでした。当時テレビで見ていた仮面ライダー死神博士にそっくりでした。特に、その髪型や顔や声は、全く本物と区別がつきませんでした。I先生は、図画工作の先生らしく、芸術家が着るみたいな服装をしていました。でも、私たち同級生の間では、『バットマン』がその先生のあだ名でした。図画工作室の前の廊下を私たちは駆けて走って、I先生に怒られることがよくありました。「こらっ、ばっとーばんだ。」と叱られました。つまり、罰当番→ばっとーばん→バットマンという連想で私たちはそう呼んでいました。
 私は、小学6年生の文化祭の時にI先生に呼ばれて、絵凧(えだこ)を作る作業を手伝う機会があって、その時こんなことを言われました。「黒田君は、(4年生の時に)初めて絵を見た時には、とてもきれな色づかいで、『これは天才かなあ』と思ったんだが、そのうちに絵全体の色が汚くなって、惜しいことをしたなあ。残念だったなあ。」とI先生は何気なくおっしゃいました。その時、私はI先生にそう言われてもピンときませんでした。なぜなら、I先生に呼ばれた私の同級生はみんなある程度は絵の上手い人ばかりだったからでした。私はその一人だったので、相変わらず私自身は絵の才能があるものだと思っていました。相変わらず、絵を描くのが好きで、苦手と思ったことが一度もありませんでした。
 私は、中学生になって、足立区の公害ポスターコンクールで銀賞(二年の時)と銅賞(三年の時)をとりました。私は、受賞作が貼り出されている区立図書館の入り口に見に行きました。銀賞の絵では、汚れた工場のシルエットと、その煙突からの黒い煙と、排水口からの汚水が、それぞれみごとにくすんだ灰色で表現されていました。また、銅賞の絵では、汚染された水の中にいるどす黒い魚と、その吐く泡さえがどす黒くなって水面に浮かんでいく様が描かれていました。私は、私自身が意図したよりもその色彩の印象が強烈だったことに驚きました。
 「絵は、人の心を表す。その人の心が美しければ、その描く絵も美しくなる。逆に、その人の心が醜ければ、その描く絵も醜くなるものだよ。」と小学校の図画工作の時間にI先生はよくおっしゃっていました。そのように色の汚(きたな)さの冴(さ)え渡った私の絵はまさに、私自身の人間的な成長と共に変容してしまったものだったのです。その成長過程は避けられなかったものだったとはいえ、美しい絵を描くという一つの才能を私から奪ってしまいました。もしも、私がその危機を何らかの奇跡で回避できることができていたならば、今頃私はスタジオ・ジブリのアニメーターの一人になっていたかもしれません。もしくは、カラーコーディネーターみたいな職業に就いて、キレイな色彩や配色を何らかの創作に生かしていたことでしょう。
 今になってみると、私がキレイな色彩の絵を描くようになれたことには、その始まりというものがありました。それは、小学一年生の時に同じクラスにいた飯島君と出会ったのがそのきっかけでした。彼は、一年生の写生会で金賞をとっていました。私は彼の家へ遊びに行って、そこで一枚の少年の顔の絵が壁に貼られているのを見つけました。それは私の知らない誰かの絵でした。飯島君にそれが誰かを聞く代わりに、私は別の質問をしました。なぜならば、その絵には現実的に見てありえない色が使われていたからです。人間の肌に、緑や青のクレパスが塗られていました。すると彼は「それは、人間の顔の影の部分だよ。」と教えてくれました。それを色彩的に表現すると、黒ではなくて、肌色の反対色の緑や青がいいのだというのです。また、原色のベタ塗りよりも、複数の色彩を配色して見える混色がいいことも彼に教わりました。小学二年生の時に、父親の仕事の関係で彼は転校してしまいました。その年の写生会で、私は彼に代わって金賞をとりました。
 小学生の私は、そんなことに私自身の天才的な素質があるとはあまり考えていませんでした。私の両親は、それぞれの仕事に忙しくて、「よかったね。」と度々写生会などで賞をとったことを簡単にほめる以外は何もしてくれませんでした。日本の高度成長期にちょっとばかし絵に才能があったって、それでメシが食えるわけがない。学歴があれば景気の良い会社に入って、お金の儲かる職業につけるじゃないか、と私の両親は考えていました。絵や小説や歌でメシが食えるほど、世の中は甘くないよ、というのが私の両親の変わらぬ持論でした。
 凡庸(ぼんよう)な大人のその考えは、ある程度正しいものでした。子供のそんな才能など『水物』(つまり、状況によって変わりやすい物事の一つ)にすぎない、と当時は考えることが当たり前だったのです。私は、小学五年生の時に一学年下の女の子に恋をして、その思いを伝えられずに悶々としていました。そして、結局彼女に告白したのですが、悶々としたことによる精神的苦痛から解放されたその瞬間に、熱が冷めて終わってしまいました。そのことを大したことが無いと私は思っていたのですが、その告白の前後で大きな変化が起こってしまいました。いち早くそれに感づいたのがI先生でした。そして、そんなI先生の私への何気ない一言が、その残念な結果の告知だったのです。