私のプロフィール 世界文学との出会い 第1回

 私が13歳の頃、中学校の読書感想文コンクールに入選してから、本が好きになって自宅近くの公立図書館へ通うことが多くなりました。最初どんな本に興味を持ったかはよく覚えていません。いろんなジャンルの本があったので、写真集とか料理の本とか地図帳なんかも初めは見ていたと思います。
 ところで、この図書館で私にとって大きな転機が起こりました。それは、保健衛生の棚で起こりました。この棚には、私の同級生の間でうわさになっていた一冊の本がありました。私は、あの寺田君から、その本のうわさを聞きました。「黒田。この図書館の保健衛生の棚に、性教育の本があるのを知っているか。」「その本は、性器の絵が描いてあるぞ。見てみろよ。」と私にすすめるのです。
 私は、彼にすすめられるままに、その本を見てびっくりしました。真面目な本なのですが、その中の2つのページに赤ちゃんの絵が描いてありました。男の赤ちゃんと女の赤ちゃんがそれぞれのページに絵で描かれていました。2つとも裸の赤ちゃんが股をひろげている絵で、赤ちゃんの性器は男女でこれだけちがいます、ということを示している絵でした。
 勿論私は、その本を見ただけで興奮してしまいました。でも、それは異常な性欲があったからではありません。十代の青少年としては、普通だったと思います。もともとこの年頃は、感じやすい年頃なのです。そこのところ、大人にもっとよくわかってもらいたかったと思いました。この年頃では、ちゃんと服を着た女性を見ただけでも、心の中でモヤモヤしたり、ムラムラしてしまうこともあったと思います。服を身に着けている方が、隠された未知の部分にかえって想像をかきたてられていたと思います。
 今でもそうですが、大人はそうした青少年の性欲をかなり恐れていると思います。そうした青少年の性衝動が、あらゆる性犯罪の原因になると考えられるからです。(この論法でいけば、青少年のいじめは、100%自殺の原因になると考えられます。)したがって、どうしたらそれを阻止できるかを考えるわけです。しかし、極端な話、犬や猫と違って、人間を去勢することはできません。
 大人が子供に、大人の恥ずかしい部分を見せられないと思うのは、大人として当たり前のことです。しかし、それで問題が片付いたと安心してしまうのは、大人としては半人前です。一番大事なことは、大人には恥ずかしい部分があることを、そして、いずれ大人になったらそういう経験もしなくてはならなくなることを、青少年に覚悟させることができるかどうかにかかっています。きれいごとばかり言っていては、大人としての信用を失うことになります。確かに、昔の若者たちは大人に対して反抗的でした。彼らが革命や暴動を起こしたくなったのは、大人が信用できなかったからだと思います。
 話が脱線してしまったので、もとに戻します。中学生の私は、図書館で見つけた性教育の本に描かれた赤ちゃんの絵を見て、興奮しました。その本を借りて、自宅で一人でじっくり絵を見たいと思いました。そのつもりで、図書館へ行って、保健衛生の棚をさがしてみたら、お目当てのその本がありません。見たかった本のかわりに、別の本が置いてありました。
 その本は、表紙カバーがなく、本の背に書かれたタイトルが擦り切れてよく読めませんでした。かろうじて、カタカナでレミゼラブルと読めました。私は、それは魔法使いの呪文だと思いました。が、保健衛生がなぜ魔法使いの呪文と関係があるのか、どうしてもわかりませんでした。 誰が、性教育の本のかわりに、その本を置いたのかはわかりませんでした。本の背に貼られたシールの分類番号が、全然違っていました。図書館の職員の仕業とは思えません。一体、どんな意図があって、性教育の本とすりかえられたのかは不明でした。
 私は、不思議に思いながら、その本を手にとってページを開いてみました。表紙の見返しの一ページに、絵画のようなイラストがカラーで載っていました。ただし、全体の色合いは暗く、何が描かれているのかよくわかりませんでした。その絵の下に、「彼はコゼットをかかえたまま、塀の内側の、広い庭らしいところにとびおりた。」という一文が記されていました。
 これが、初めて私が世界文学の一つに触れた瞬間でした。当時(1974年)既に出版されていた、大久保昭男氏の訳によるユゴー作『レ・ミゼラブル』(ポプラ社刊行)でした。本屋さんで後で見つけた、同じ中身の本は、黄色い表紙カバーで黒文字で『ああ無情』とタイトルが書かれていました。(現在は、『レ・ミゼラブル ああ無情』のタイトル名で出版されています。)
 ヴィクトル・ユゴー著"Les Miserables"は、フランス文学の小説で、十九世紀ヨーロッパ近代リアリズム文学の小説の一つです。『レ・ミゼラブル』(もしくは、『ああ無情』)というタイトルで、日本でもいくつかの出版社から文庫本として、いくつかの翻訳で出版されてきました。
 その中でも、私はポプラ社大久保昭男氏の訳が一番好きなのです。初めて読んだ本が、彼の翻訳によるものであることが大きいのですが、もう一つ理由があります。ユゴーの原作や、原作に忠実な翻訳では、物語の初めがミリエル司教や、いろんな前置きの説明から始まります。ところが、大久保氏の訳では、いきなり物語の初めから主人公のジャン・バルジャンが登場します。いきなり物語の中に読者が引き込まれてしまうところが、子供も読める翻訳ものではあるものの、うまいなあと思わせます。訳者自身も、この本のあとがきの訳者解説で、「この作品は、膨大な分量の大長編小説ですが、その筋と作品の精神を損なわないように努めながら、枝葉の部分ははぶいて縮小したものであることをおことわりしておきます。」と述べられています。つまり、大久保氏訳の『レ・ミゼラブル』(もしくは、『ああ無情』)は、フランス語で描かれた原作の忠実な翻訳というよりも、原作の翻訳の縮約版で、長編小説を青少年にも読みやすくした翻訳でした。
 また、黒岩涙香氏の『噫無情』が、この小説の昔からの翻訳としては余りに有名です。私の母は、読書嫌いの、本嫌いですが、なぜかジャン・バルジャンだけは知っています。なぜかと言うと、小学校時代に、担任の先生が毎日朝礼の後で、『噫無情』を読んでくれたからだそうです。
 今は絶版になってしまったポプラ社の旧版の『ああ無情』には、はしがきとして、ある評論家の文章が載っていました。その評論家の人の名前や経歴については忘れてしまいましたが、その文章には、読んでためになる内容が書かれていました。おじさんが子供に、この『噫無情』を手渡して読んでみな、と勧めて読ましていたところ、その子供のおかあさんから「こんな難しい本、子供が理解するのは無理じゃないんですか。」と、いちゃもんをつけられたそうです。すると、おじさんは「この本には、立派なことが書いてあるから、子供に読ませて大丈夫。」と答えたそうです。青少年向きのこの本には、ピッタリのエピソードでした。
 さらに、こんなことも書かれていました。この本を読むと、世の中の貧しい人や卑しい人に対する見方が変わって、そうした人たちを今までさげすんでいた気持ちが恥ずかしくなる。というようなことが、述べられていました。実際私も、この本を読んで、考えや見方が変わってしまいました。優れた文学は、読む人の心を根本的に変えてしまう力があることを、私は初めて知りました。
 この本は、日本人が読むには、空間的にも、思想的にも、人間的にも、スケールの大きな作品に思えて、大きなショックを受けました。思春期の私は、『レ・ミゼラブル』を読んでしまったために、しばらくの間、日本文学を全く読めなくなりました。日本の近代小説のほとんどが、小さな問題ばかりにこだわっているように見えて、日本人の作家の心を深く読めなくなってしまいました。
 説明がおおざっぱになってしまいましたが、最後にちょっと妄想的なことを一言付け加えておきます。以前フジテレビ系列のドラマで『白い春』というドラマをテレビで毎週見ていました。安部寛さんと大橋のぞみさんが出演していたドラマで、特に最初のほうでは、阿部寛さんの役が『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンに似ているな、ちょっとかぶっているなと思って、ドラマを見ていました。びっこになった原因は違いましたが、びっこをひいて歩くところは、まさにジャン・バルジャンと同じでした。刑務所から釈放されたところからドラマが始まったり、不幸な過去のいきさつの回想シーンを見て、ついジャン・バルジャンを個人的に思い出してしまいました。すると、大橋のぞみさんの役はコゼットに当たるのかな…。と、考えすぎてしまいました。全部、妄想といえば妄想なのですが……。
 中学生の頃に初めて読んだこの世界的な文学の本が、私にどれくらいの影響を与えたか、ということをよく説明できなかったかもしれません。けれども、中学二年の私は、『レ・ミゼラブル』の本に書かれている内容に夢中になって、例の性教育の本のことはすっかり忘れてしまいました。世の中には、『レ・ミゼラブル』に書かれているような大変なことがあるのだ、と考えるようになりました。私の身の回りの現実や、テレビや新聞で毎日伝えられていることよりも、もっと大きくて広い視野で見て考えなければならないことがあることを、私はこの本の中から時間と空間を超えて教えてもらった気がしました。あれから何十年もたった今でも、私のその気持ちは変わっていないと思います。