謎の翻訳者さんの話

 私は三十代直前から三十代前半にかけて、東京の海岸通りにあった小さな翻訳会社に勤めていました。その頃の私の仕事は、翻訳者さんが翻訳したものを、その社内で目を通してチェック校正することでした。そういう会社での、そういう仕事柄だったので、それほど給料はよくありませんでしたが、いろいろと勉強になることが多かったと思います。
 或る日の業務中、私のところに短い手紙の英文をチェックする仕事がまわってきました。社内で添付された仕事の内容シートを見ると、Parkさんという聞き慣れない名前の翻訳者さんに外注依頼した和文英訳であることがわかりました。パークって、英語で『公園』の意味なので、私はてっきりアメリカ人の翻訳者さんだと思っていました。ところが、その翻訳された英文の内容に目を通してみると、どうも変なのです。今まで見たこともない、英和辞典を引いてもわからない奇妙な英文の言い回しばかりが出てくるのです。そこで、私は社内勤務のイギリス人の翻訳者さんにそれを見てもらいました。そのイギリス人のおじさんはパークさんに以前会ったことがありました。「パークさんの翻訳はほぼ正しいと思いマス。翻訳が全くオカシイわけではなくて、ほんのちょっとだけ手直しすればスミマス。」と日本語で私に教えてくれました。そこで、私はそのイギリス人の翻訳者さんに、ネイティブ・チェックの赤ペンを入れてもらいました。それが本当に最小限の修正であったことを、私は憶えています。
 それから数ヵ月後、会社からそんなに離れていない芝浦のカラオケ店で、夜に会社の宴会が開かれました。その時は、外注でお世話になっている翻訳者さんも何人か招待されていました。パークさんという翻訳者さんも来ていると、営業担当の社員の人から私は聞いていました。実際に会ってみると、劇作家の井上ひさしさんに似たオジサンでした。営業担当の人の話によると、パークさんは韓国人の翻訳者さんで、日本語はよくわからなかったそうです。そこで、営業担当の人は、別のルートを使って日本語を韓国語(ハングル)に直して、パークさんに韓国語の文章を英訳してもらっていたそうです。
 翻訳してできた英文の言い回しや表現が、日本人から見るととんでもなく違っているように感じられても、英語のネイティブ・スピーカーから見るとほんのちょっと手直しすれば意味が通じるものになる。という例を、その時の翻訳のチェック校正作業で私は知りました。同じ英語という外国語を使っていても、各国の人によって、目の付けどころが微妙に違うようなのです。その違いの微妙なところが、それが『言葉』であるがために厄介(やっかい)なところなのです。ちょっとした言葉使いの違いのせいで、その伝達内容に間違いが起きるのではないかと気になってしまうからです。
 そう言えば、別の例で、シンガポールの人からの手紙が英文和訳されたものをチェック校正したことがありました。社内で添付された仕事の内容シートによると、それは日本人の翻訳者さんに外注したものであることがわかりました。短い手紙の翻訳であったにもかかわらず、その翻訳者さんからは質問が来ていました。原文の英文には、どうしても意味がつかめない箇所がある、との指摘がされていました。営業担当の人を通じて、その手紙をもらった人、つまり、その仕事の依頼者に連絡して確認してもらいました。すると、その手紙を書いたシンガポールの人が、英語を母国語とする人ではなく、英語がよくわからず、英語の言い回しを間違えていたことが後でわかりました。お客さんから仕事で来るものは、全て正しいと見なしてしまいがちです。けれども、その事例は、まさにその盲点をついていたと言えましょう。
 英語は世界共通語に将来なると、言われてきました。ひょっとすると、否、ひょっとしなくても、英語はすでに世界の共通語になっているのかもしれません。しかしながら、だからと言って、みんなが英語を使えるようになったら通訳や翻訳の必要がなくなると考えるのは、私には早計だと思われました。世界のグローバル化によって、異国間の言葉の障壁は以前よりも無くなってきつつあるのかもしれません。目的のはっきりしたビジネスなどで、話の内容や用語が限定されている場では、支障が無いのかもしれません。けれども、同じ英語という外国語を使っていても、お互いに通じにくい、もしくは、伝わりにくい場合が無きにしもあらず、ということは胆(きも)に銘じておいたほうがいいと思います。
 かつて、2002年FIFAワールドカップが日韓同時開催された頃のことです。あの頃は、まだ日本でも韓国でも、お互いの国の言語に対する関心度が、今日と比べると低かったようです。そこで、日本人と韓国人が、サッカー競技場で出会った場合、コミュニケーションを取る方法で使われたのは英語という外国語でした。それで、急場はしのげたようですが、この方法はお互いの庶民にはあまり普及しなかったようです。確かに、国連などの場では、英語が国際的に有効だと考えられます。しかし、庶民レベルでお互いの個人的な感情や気持ちを伝えたり、知るためには、英語であっても十分に果たせない、そんな場合や地域が世界的に見て今でも少なくないと思われます。それは、エスペラント語が世界的に普及しないのと同じ理由があるからだと考えられます。従って、現在、その最善策として世界で行われている方法は、相手の国の言語を勉強して相手の気持ちを少しでも理解できるようになることのようです。
 そうやって考えてみると、私たちはまだまだ、異国の人たちとうまく通じ合ってやっていけるのか不安な点があると言えます。つまり、「国の外交」と言葉では一言で言えても、そう簡単に行くとは限らないのが、現実と言えます。相手の国のことを理解することほど、面倒くさいことは他に無いかもしれません。日本人は歴史認識が無いと見られていますが、本当はそうではないと思います。お互いに相手の国のことを知らな過ぎている、または、知らない振りをしてきたのが、本当のところではないかと私には思われました。