私にとって、やっててよかった勉強とは?

 今夜たまたまEテレで『テストの花道』という番組を見ていました。今回の番組のテーマは「やっててよかった!あの勉強」でした。各界のトップランナーの人たちのそれに対する意見等が述べられていました。近年の国際化に伴って、英語をやっておくべきだ、という意見も当然ありました。
 そのような意見の人からすれば失礼きわまりないかもしれませんが、私は実は、英語を勉強して、それほど恩恵を被(こうむ)った覚えはありませんでした。英語ができたから何か得をしたとか、英語で飯が食えたとかいう経験は、意外なことに生まれてこのかた一度も無いのです。
 学校の勉強すべてに関しても、やらなくてもよかった勉強があったかというと、すぐには一つも思い当りません。「社会に出て、役に立たなかった勉強の知識」という基準を仮に設ければ、いくつもそれらを列挙できましょう。とすれば、「社会に役立つ」ためだけに、若い頃の私は勉強していたのかな、と思い至ると、ちょっと私自身が惨(みじ)めになります。あるいは、自己実現という言葉がありますが、それを目的として私は勉強していたのでもなかったと思います。
 従って、「やっておいてよかった勉強」が特にあったかと言えば、それがどれだったのか私にはわかりません。どれが必要で、どれが必要でなかったかは、この年齢になった私にさえもわかりません。きっと、私は、学校を卒業して、私自身が人間として完成したと思わなかったから、あるいは、社会に出て、成功したと思わなかったから、そんなふうに考えるようになってしまったんだと思います。
 私自身がどういう態度で学校の勉強をしていたかと言うと、「勉強するとはどういうことか」「学ぶこととはどういうことか」などということ自体を模索しながら、学校で勉強し、学んでいたようです。その態度は、きっと今でも変わらないようです。
 社会でうまく賢くやっていくためには、人前で要領がよければ、それで十分なのです。勉強や学問なんか不要です。社会人になって、私はイヤというほどそのことを思い知らされました。ですから、勉強や学問的な知識で一儲けしてやろう、などという考えは、どう見ても理にかなっていない、おかしな考え方なのです。
 なのに、なぜ若いうちに勉強しておくべきなのか。なぜ大人はそう思い、そう若者に伝えるのか。ということが問題です。でも、この問いに正解は用意されていません。ただ、大人は自らの成功と失敗の経験から、「あれを勉強しとけばもっと良かったから、そうしとけ。」と、おすゝめしているだけなのです。あとは、それを若者がどう受けとめるかに委(ゆだ)ねられているのです。
 ところで、私がどうして大学の英文学科で勉強することになったのか、どのようにそれを勉強していたのかを述べてみたいと思います。
 高校三年の私はフランス文学を勉強したくて、大学受験はフランス語学科を選ぶ気持ちでいました。ところが、私の父に、飯田橋にある私立H大学を受験してみないかと薦められました。でも、そのH大学にはフランス語学科が無いことを、私は父に指摘しました。ところが、H大学には文学部があって、第二外国語でフランス語を選択できるぞ、と父に言いくるめられてしまいました。私は、父の顔を立てるためにH大学の試験を受けたら、現役で合格してしまいました。
 実は私の父は勘違いをしていました。飯田橋の隣の水道橋にある私立C大学を、H大学と勘違いしていたのです。中学を卒業して、溶接の職人になった私の父は、水道橋のC大学の工学部へ私を行かせたかったのです。つまり、親子のコミュニケーションがうまくいってなかったので、お互いに思ってもみなかった話のやりとりで、私の進路は決まってしまったわけです。そうしたうまくいかない人間関係が、若い私にとっては身につまされる経験となって、文学を勉強して、精神力を鍛えないといけないと思いました。
 フランス文学を学びたかったのも、『レ・ミゼラブル』や『ジャン・クリストフ』を読んで、現実の人間関係に悩んでばかりいた当時の私を変えるものを、それらの本の中に感じたからでした。それが何なのか、もっと詳しく知りたくて、フランス語とフランス文学を勉強したいと思っていました。
 結局その夢は、変質してしまいました。H大学の一年と二年で第二外国語のフランス語の授業に休まず出席して、評価テストの成績はいつもAでした。三年でフランス語中級講座をとりましたが、テキストはアイヌ人研究者のフランス人の著書でした。先生と受講生が合わせて三人しかいなくて、毎週の予習復習の量が大変でした。
 ぶっちゃけて言いますが、私がH大学英文学科に通うようになった時点では、余り英米文学に詳しくありませんでした。イチゴを収穫に行って、レタスを収穫する破目(はめ)になったようなもので、気持ちの上では全く畑違いだったわけです。それでも、私は選んだ進路に逆らわずに努力を続けました。当時は、経済・経営・法学部のほうが文学部よりも断然就職に有利でした。私は文学部に入ってから、親からも親戚からも、将来に対する期待よりも懸念の声を数多く聞きました。しかし、私は、まるでサラリーマンのように黙々と、毎日自宅と学校の間を往復して、授業の予習復習を繰り返していました。
 毎日の予習復習は、英語学と英文学の数多くの授業にその大半を費やしました。様々な英文テキストの英文解釈がそのほとんどでした。それも、有名およびそれほど有名でない英米文学作家の小説、シェークスピアアイルランドの無名女性作家の短編、アメリカ合衆国の歴史書、愛の技術書、ジャパン・タイムズの記事、スタインベックのエッセイ、現代英語訳の新約聖書等々、私が受講した分だけでもこれだけありました。このように英文解釈の講座は、その担当の講師の先生の趣向による様々なジャンルのテキストを英文解釈で読みました。それ以外に、英会話、英作文、英米文学概論、英米文学史、英語音声学などの授業に出て勉強していたのが、私の毎日の日課でした。それ以外に、一般教養の授業もあって、博物館学芸員の勉強もあり、教職課程の勉強もあり、コンピュータの勉強もありました。総じて勉強三昧の四年間でしたが、結局、就職先を探して決めたのは四年生の二月になってからでした。
 英文学が専攻であったせいもあって、そうした勉強が、将来の職業や社会的地位と結びつくとは全く思いませんでした。そうしたあきらめがあったせいでしょうか、それらの授業の内容に逐一、目が向きました。そして、そのいくつかには、一生忘れられないような思い出があります。そのうちの一つを紹介しましょう。
 Y先生の英文講読は、現代英語訳の新約聖書を扱っていました。私を含めて二十名ほど受講者がいました。ずっと後にわかったことですが、Y先生は、H大学英文学科の生え抜きの先生でした。ところが、その風貌は、イエス・キリストのイメージそのもので、あごひげを生やし、記念写真を撮る折には、両腕を広げて手のひらを上に向けていらっしゃいました。授業中のY先生の話は真面目で、無駄話は一切ありませんでした。
 受講生の成績評価はレポートの提出によるものでしたが、その課題は恐るべきものでした。「ユダはなぜイエスを裏切ったのか?」その理由を小説の形式で説明せよ、と言うのが、レポートの課題でした。「例えば」と言って、Y先生は「幼い頃にユダとイエスは出会っていて、イエスが『飛び立て!』と言ったら、多くの鳩たちが飛び立ちました。ユダは、それを見て、イエスに嫉妬したんだなあ。そのことが、後に彼がイエスを裏切る原因になったと言える。」というふうな話をしてくれました。Y先生は、若い頭脳の自由で柔軟な発想を期待して、そのようなヒントをくれたつもりだったのですが、当時の私は、そうした話の例えていることが全く呑み込めませんでした。そこで、誰かが書いた『ユダの裏切り』についての説を借用して、それをレポートに書き写すのが精一杯でした。ユダに金銭欲があったとか、ユダが愛するイエスを裏切ったのは必然だとか、月並みなことしか書けませんでした。小説、つまり、フィクションにもなっていませんでした。
 今になって考えてみると、あの若い頃にそのレポートの課題にうまく応じられなかったのは仕方がなかったと考えられます。それを文章にできるだけの、社会経験や人生経験が、オタク学生の私には全くありませんでした。それまでに、フランスやロシア文学などの翻訳物で読んだことの読書経験など、全く役に立ちませんでした。よくよく考えてみれば、それらの文学の根底には、旧約聖書新約聖書の記事があったわけで、他人のした体験談や意見を受け売りして、作り話をすることもできたかもしれませんが、あえて私はそれをしませんでした。
 聖書の勉強をすることは、西洋の文学を理解する上で不可欠だと、私は思って、その授業に出席していました。しかし、その受講を評価するレポートがうまく書けなくて、失敗してしまいました。その授業を受講して正解だったか否かは、今の私にも判断がつきません。その私の判断を超えたところに、勉強をすることの本当の意義があるのでしょう。今の私には、おぼろげにそう思えるのです。