私には『友情』が感じられない

 勘違いされたくないので、最初にことわっておきますが、私は世の中の人々の『友情』とか『愛情』とかを全く否定しているわけではありません。自由にやってくれ、と言いたいくらいです。私が日常的に孤立している意味は、なるべく他人から恨まれないように憎まれないように、つまり、他人に迷惑をかけないようにしているだけです。別に寂しがる理由でもなければ、他人を傷つけたり、あるいは、自殺などをする理由にもなっていません。
 今回私が一番言いたいことは、太宰治さんの小説『走れメロス』の感想についてです。私がこの小説を中学2年の国語の授業で学んだのは、1974年くらいの頃だったと思います。クラスの担任で、しかも国語の担当であった30代なかばの女性の先生が、この小説の主人公の心理描写を分析して、それをくわしく黒板に書いていたことを、私は今でもよく憶えています。その先生の言われるのには、この小説の作者(太宰治)は、主人公メロスの心理描写によって『人間の弱さ』というものをあばいて表現しているのだ、ということでした。私は、そのことを聞いて、すごく感動しました。それまでの私は、文章の読解力が無くて、その国語の授業や試験が苦手でした。しかし、その先生のこのような話を聞いて、小説などの文学書を読むことが好きになりました。それをきっかけにして、私は、太宰治さんのほかの小説を次々と読んでいきました。中学校の図書館から太宰治全集を一冊ずつ借りて、一人で家のこたつなどで読んでいた時期がありました。
 太宰治という作家は、日本の太平洋戦争の戦前・戦中・戦後を生きた小説家でしたが、その作品を読んでみると、アナーキー無政府主義的)な作風でした。しかも、晩年は、自殺未遂や自殺をしています。愛人と入水自殺などをしていますから、そんなに誉(ほ)められたものではありません。私の印象としては、彼は、人の手本になるような人間ではなかったと思われます。(なのに、なぜか日本の小説家として、日本の国語の教科書に載っていますが…。)
 また、作品に関しても、『人間失格』や『斜陽』などを読んでみたのですが、当時思春期だった私には、正直言って面白くありませんでした。何の感動も無かったと、言ったほうが正しかったかもしれません。それ以来、私はそれらの小説を二度と読まなくなりました。
 しかし一方、『走れメロス』や『女生徒』『雪の夜の話』などの彼の小さな作品については、今でも興味があります。これらの作品は、子供向けの文学全集などに載せられていることがあるので、一般に目に付きやすいかもしれません。それはさておき、私には、どうしても気になって仕方がないことがあるのです。
 ここ20年か30年のうちに私は知ったのですが、『走れメロス』は、『友情』をテーマとした小説だ、ということでした。国語の学習参考書を読んでも、そう書いてあります。単純に考えてみて、中学2年の私が、そのことを当時の国語の授業で学ばなかっただけのことかもしれません。確かに、この小説が友情をテーマとしていると考えるのは正しいことです。そう断定することは、正しい読み方です。試験に出れば、100点満点の大正解です。
 しかし、私は、ここで少しだけ異論を申し上げたいと思います。「この小説のテーマは友情だ。」とひとくくりにしてしまうのは、文学上で一番残念な結果を招きます。それは、思考停止と同じで、文学が現実には全く役に立たないことを証明してしまうのです。実は、私は、この『走れメロス』という作品をいくら読んでも、この作品からは『友情』が感じられません。「これが『友情』というものなのだ。」と、作者が太鼓判を押して主張しているとはどうしても思えないのです。(注・もちろん、作者太宰治は、この作品について別の場で、青春は友情の葛藤であると述べてはいますが…。)
 「それでは、なぜ暴君は、二人の若者の友情を目にして、悪から善に心変わりをしたのか。その友情が人として美しかったからではなかったのか。」という一般的な意見が当然あると思います。しかし、私はそうではないと思います。「暴君が心変わりしたのは、主人公のメロスもまた、心に醜く汚い面を持っていたからであり、それなのに、それが導く運命を自身の意志で変えてしまったことに驚いたから。」というのが、私の答えです。もちろん、これは、人生で大事な何かの試験の正解なんかではありません。つまり、そんなことを答案に書いたら、エリートなんかにはなれないかもしれません。
 しかし、「いかなる英雄であっても、美点だけではありえない。」そして、「人間である以上、美しいものだけを見て生きていくことは不可能。それと同じくらい、醜いものも見て生きていかなくてはならない。」という真実にもとづくならば、私のそのような風変わりな解答も、少しは現実に光を当ててくれるかもしれません。