『走れメロス』で文学散歩

 「(略)ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」
 「なに、何をおっしゃる」
 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」
  メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。


 これは、太宰治著『走れメロス』という小説本文から引用した一場面です。そのような暴君のような振る舞いをする人間は、いつの時代でもいらっしゃるものです。友情だの、正直だの、平和だの、議会だの、選挙だの、民主主義だの、人権だの、人道だの、そんなものはこの世では、うわべだけのものにすぎない。そんなものにうつつを抜かしている者の気が知れない。むしろ、嘘でもいいから、そのような言葉を世間で軽く吹聴して、ずるく利用したほうが利口だ。「人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。」と、その王は、権力を笠に着てそこまで考えていると、この小説では描かれています。
 そのような王の残虐な気持ちを理解した上で、この小説の場面では、もう一つ重要なことが描かれていることに注目したいものです。王のその言葉を聞いて口惜(くや)しくて地団駄(じだんだ)踏んだメロスの内面についてです。もし仮に、メロスの心の中に、人間としての弱さがひとかけらも無かったならば、口惜しく思うことも、地団駄踏むことも無かったわけです。「メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。」と本文にもあるように、彼は、普通の人間であり、超人なんかではありません。だから、その本心の痛いところを突かれて、その王の言葉に我慢がならなかったわけです。王の言うとおりにすれば、彼自身の命は救われます。しかし、友や世間を裏切ることになる。いわゆる青春の葛藤として、人間の弱さと人道との間を行ったり来たりしているのです。
 さて、『文学散歩』などというと、普通は、物語の舞台となった場所を訪問して、そこを見学して紹介をするものです。けれども、ちょっとその常識の視点を変えて、人間の心をあちこち巡ってみるのも面白いと思うのです。心理学では、科学的な客観性が先に立って、感情的な側面がとかく後回しになりがちです。だが、多くの人々が知って理解したいことは、日常的な『あるある性』にあります。
 各人は、それによって、今の自身の立ち位置とか気持ちとかを確認するのです。つまり、文学作品を読むことなどによって、いわゆる『心の散歩』を試みることができます。そのようにして、心の糧とか慰みとかを得ておくことは、いずれ現実に役立ちます。思ってもみなかった現実、すなわち、いわゆる異例の事態に直面した時に、何らかの助けや救いを与えてくれさえします。と、そんなふうに私は考えています。いかがなものでしょうか。