『走れメロス』の私見

 ”熱中症”についてもそうですが、どうも私たち現代人の多くは、解決しがたい問題を抱えて日々を生きているようです。そんなこともあって、私は、何らかの知恵を書いてみようと思い立ちました。
 先日のEテレで『100分de名著 For ティーンズ 第3回『走れメロス』』を私は視聴しました。この小説は、番組中で述べられていた通り、いろんな見方ができる小説です。だから、私が中学2年で国語の教科書で読んだ時から今日に至るまで、全く変わっていない私自身の見方は、その番組中で紹介されていた所見とはだいぶ違っていました。
 その違いがどういう理由で生じたのか、時代の流れなのか、それとも、世の中の意識の変化なのか、それ探るのは、それはそれで興味の尽きぬ題材だと思います。しかし、今回の私は、そのことに深掘りをいたしません。ただ、私が、太宰治さんの著作『走れメロス』を読んで感じ取ったことを、文字にしてみたいだけなのです。
 まず、この小説の主人公は、メロスという人物一人であることに相違ないと思います。何となれば、メロスという一人の男を主人公にして、全て彼の視点から描かれた私小説であるとさえ言えます。つまり、作者である太宰治さんの分身となって、このメロスという主人公が作者の考えていることを代弁している、とこの小説の内容は考えられました。
 いきなり結論を申しますが、この小説の一番のテーマは、勇者メロスの正義でもなく、その勇気が邪悪な王様を改心させたことでもなく、メロスとその友人との無二の友情でもない、と私は思っていました。この小説を初めて読んだ中学2年(14歳)から今日(57歳)まで、私にとっては絶対に忘れてはならない考えがありました。
 それは、こういうことです。メロスのようにどんなに勇者であっても、すなわち、どんなに清く正しい正義の人であっても、どうしようもないことがあるということです。人間が人間として生きていく限りは、どうしても、人間としての弱さやガッカリな部分を公にさらしてしまうということなのです。そのことを小説という形で世の中に発信した意味において、作者である太宰治さんの功績は計り知れないと思いました。
 現代人は誰でも、こんなことは黙っておきたいものです。他人には知られたくない、自己の心の恥部と思われるかもしれません。しかし、作者である太宰治さんは、人間は誰しも、輝かしい希望や夢を持ってのみ生きていくものではなく、時には悲しみ汚れて、イヤな思いをして、それでも我慢をして生きていくから、本当に人間らしいのだと、述べているのです。
 この『走れメロス』という作品は、「メロスは激怒した。」で始まり、「勇者は、ひどく赤面した。」で終わっています。太宰治さんのお道化を借りて申せば、「勇者メロスが赤面したのは、公衆の面前でほとんど素っ裸だっただけではなく、ここまで読み進めてきた読者のみんなに彼の心の中が丸裸にされてしまったからなのだよ。」ということに尽きると思います。
 このような、清くて汚い人間の本質をわかっていれば、いじめを苦にする必要もないし、不幸だと言って生きることを放棄することもないのかもしれません。(けれど、本当は、誰の人生もままならないのかもしれません。当の太宰治さんは、自殺未遂や自殺をしています。)