当たり前と見なすことの良し悪し

 だいぶ間が空いてしまいましたが、私の前回のブログ記事(『走れメロス』の私見)において、書き足りなかった点があったかもしれません。そこで、今回は、その補足を簡単に述べておこうと思います。
 この『走れメロス』という小説が載せられていた、当時の国語の教科書では、この作品のすぐ後に、太宰治さんの小さな顔写真と、3行くらいの簡単なプロフィールが追記されていました。そして、さらにそのすぐ後に《学習の手引き》というものが載っていて、そこにはこのようなことが記述されていました。
 「この小説の作者は、主人公を通じて人間の内面を描いている。そのことをどう考えるか。みんなで話し合ってみよう。」というふうなことが書かれていました。
 しかし、当時の中2国語の授業では、その教科書の《学習の手引き》に書かれていた通りにみんなで話し合うというようなことは一切行われませんでした。その授業を担当していた国語の先生が、「作者の太宰治は、主人公の心の内面を描くことによって、人間の弱さについて表現しています。」と述べると、私たち生徒は皆それを聞いて、この小説のテーマとする所を学びました。「そうか、この『走れメロス』という小説は、人間の心の弱さを表現した作品なのだな。」と納得し理解していました。
 ここで大切なことは、先生がそう言ったのだから、それは、どう変えようもない真実であると、中学2年の私たち生徒が皆、そのことを信じて疑わなかったことです。暗記や記憶の詰め込み主義教育が当時の主流であっただけに、そのようなことは至極当たり前のことでした。つまり、それは、小説家が、人間の内面を描くことは、それほど珍しいことではないという考えにつながっていきます。
 悪く言えば、無関心・無感動世代と批判され、良く言えば、冷徹な判断を下せる世代と見なされていました。けれども、この作者がどんな気持ちでこの作品を創作したのか、その目的とか意図したことには少しも考え至らなかった世代だったのです。仮に、そうしたことに考え至った人がいたとしても、その人は天邪鬼(あまのじゃく)と見なされてしまう、そんな憂き目を見るしかありませんでした。
 何もかもが当たり前すぎて、つまらないと感じてしまう、そういった雰囲気が、私たち同級生の間にはありました。その『走れメロス』にしても、人間の内面とか、人間の弱い心とかが描かれるのは、至極ありふれたことだと考えていたわけです。テレビでドラマを観れば、登場人物が当たり前のように自らの心の中(うち)を口にします。その視聴者である私たちは、何も推し量ることなく、そのことが当たり前であるかのように受け止めて、十分理解したつもりでいました。そのくせ、実は、何も考えておらず、ぼーっとして生きていたのです。
 でも、私個人としては、そのようなことをそれほど批判する気にはなりません。あらゆることに気を配ることは、心身共に疲れます。世の中のあらゆる物事をそれほど気にせずに毎日生活していけたら、これほど幸せなことはないのかもしれません。精神的に緊張しないそういった状態になりたいと、時々私はあこがれてしまうのです。