私のプロフィール 世界文学との出会い 第3回

 『英雄(もしくは、ヒーロー)』という言葉には、いつの時代でも多くの人々の心をくすぐるものがあると思います。誰でも自分も英雄になりたいとか、もしくは、英雄に憧れるとかするものです。そしてまた、仮に英雄になれた自分自身を他人より優れていると考えて(つまり、優越感にひたって)悪い気がしないものです。しかし、その実体の裏表を知ってしまうと、そうした人物への執着心が薄れることも事実です。私が高校三年生の頃に読んだ二人のロシアの作家の小説は、いずれも「英雄ってこんなものだよ。」ということを読者に示唆するものでした。それらの小説を読むと、「英雄になりたいなんて思って努力したところで、誰も大した人物になれないし、大したことないよ。」とでも言われてしまったような気になりました。
 その一つはドストエフスキーの『罪と罰』で、もう一つはトルストイの『戦争と平和』でした。両者とも長編小説だったので、学校の授業のない長期の休み中に読みました。前者は高校三年の冬休みに、後者は高校卒業後の春休みに、私は新潮文庫を近所の本屋さんで買って読みました。
 一般によく知られているように、前者の小説は、英雄になりたがっていた貧乏学生の主人公が、世の中のためになるなら、高利貸しのおばあさんを殺しても罪にならないだろうと考えて、それを実行してしまいます。しかし、罪のないそのおばあさんの家族まで手にかけてしまい、その良心の呵責にさいなまれる話です。そして、物語の後半になると、卑しい商売をしている娘のことを知って、彼は自らがしたことを反省し、法のもとでその罰を受ける決心をします。この小説の作者であるドストエフスキーさんは、誰もが一度は考えるであろう『英雄への志向』をテーマに取り上げながら、人生の永遠の真理の一つを私たち読者に見せてくれました。私たち一人一人は、英雄になって勝手気ままに振舞えるようになるために、この世に生まれてきたわけではなかったのです。大学受験の勉強のために、知らず知らず利己的になっていた、当時の若者(馬鹿者?)だった私には、その小説の内容は、身にしみて考えさせられました。
 さらにそれだけでなく、この『罪と罰』を読んで感化されたイメージでもって、英雄の問題のみならず、慰安婦問題や愛国無罪について考えるならば、全く従来と違った見方ができると思います。このことは、日本人のみならず、韓国人や中国人の方々にもお勧めしたいところです。この『罪と罰』という小説が、世界の国境を超えて有効であり、有益である証拠がそこにあると思います。
 また、後者の小説は、前者の視点とは全く違う視点で、同じテーマを扱っていました。この小説は、上はフランスの英雄と称されたナポレオンや、ロシアの上流階級の人たちや軍人から、下は貧しいコサック兵まで、この小説に登場する人物一人一人を作者がていねいに描ききったことで有名な作品です。この小説を読み進めれば進めるほど、この小説全体で何を作者は言おうとしているのかわからなくなりました。そして、巻末近くになると、今までの物語の内容とは全く違う論文調の文章が数十ページも続きます。その中では、従来の歴史学がどうのこうのという著者の議論が長々と続くのです。そして、この小説の本当の終わり近くで、「歴史は一人の英雄が作り出すのではなく、多くの名もない民衆の一人一人が作り出すものである。」とか「そのような歴史の見方で、人類の歴史を見直したならば、従来の歴史学とは全く違った歴史学ができるであろう。」みたいなことを、この筆者は述べていました。
 まあ、小説ですから、その作者のトルストイさんがどんな書き方をしようが、それは自由です。そこで私はやっと、この『戦争と平和』という小説が何を言わんとしていたのかがわかりました。登場人物の一人一人を文章でていねいに作者が描いていたのは、「彼ら一人一人が歴史を、あるいは、世界を構成している。」ということを具体的に表現したかったからなのです。「身分や貧富の差にかかわらず、彼ら一人一人が、この世の中を作っていくのに不可欠だった。」と、この小説の作者であるトルストイさんは訴えたかったのです。この小説の文中では、「ナポレオンを頂点として、ピラミッドのように関係付けられた人々の群れ」というような表現が見られます。もはや、その人々の群れは、ナポレオンという一人の英雄の意思で動いているのではなく、その一人一人の総意で意思決定がなされていて、ナポレオンという一人の英雄はそれに振り回されているにすぎない。とまで述べられています。それは、私たちの一般的な考え方から見れば、言い過ぎかもしれません。しかし、この小説を一通り読むと、フィクションであるのにもかかわらず、なぜロシア遠征で英雄ナポレオンが敗退したのかがわかります。それがどんなに惨めだったのかも、わかります。そして、傷を負った多くの人々や、その中から、何とか立ち直ろうとした人々のこともわかります。
 そんな時、私は中学や高校時代に、地理の先生や歴史の先生などの複数の社会科の先生たちが、時たま授業中の余談でこんなことをおっしゃっていたのを思い出しました。「教科書の中では、何某(なにがし)という偉人や当時の有名人がかれこれしました、ということが書かれているけれども、本当に世の中や歴史を動かしたのは、(教科書にその名前が載っていない)その時代ごとの名も無い民衆の一人一人なんだよ。」というようなことを、私はそれぞれ別の先生から数回聞いたおぼえがあります。私はそのたびに「名も無い民衆の一人一人」と言われても、そのイメージさえ思い浮かびませんでした。彼ら一人一人は当時の社会や歴史の流れの中で無力であったに違いない、と決めつけていました。それは、私だけではなかったはずです。みんな、そう考えていたと思います。
 今になって思えば、私たち日本人にとっては、主権在民の考えがよくわかっていなかったのだと思います。これで何となくわかると思いますが、主権在民とは、社会性の一種なのです。私が学生だった頃の社会科の先生たちは、大学で社会学を勉強するうちに、それがわかってきたのでしょう。つまり、その一方で、このような考えがわからなかったのは、私たち日本人の欧米化が不十分だった証拠でもあったと思います。
 それは兎も角、この『戦争と平和』という小説は、この世の中が、少数の英雄の思いのままになってしまうのではなくて、むしろ彼らの思い通りになりがたい。多数の民衆の渦巻く中で、時代と世の中が動いてゆくことを、小説というフィクションの形式で立証しようとするものでした。この小説に影響を受けて、アメリカのマーガレット・ミッチェルさんが『風と共に去りぬ』という小説を書いたことは、余りにも有名です。
 しかしながら、たとえそれが虚構や見せかけであったとしても、英雄の存在を否定しない考え方も勿論あります。最後に、「英雄がいるから私たちは元気づけられるし、人生が楽しく感じられる。」という主張に触れてみましょう。それでは、そもそも英雄とは何なのでしょうか。
 名言風に言うならば、「英雄とは、未来が発掘するものである。」と私ならば言いたいところです。その人が英雄かどうかは、後世の人たちがその業績を発掘して、決めるべきだと私は思います。例えば、尖閣諸島で日本の海上保安庁の船に体当たりした中国漁船の船長は、本国に送還されて、英雄視されたそうです。が、その後の彼はどうなってしまったのか。それを知っている人は、ほとんどいないことでしょう。私も知りません。彼は反日運動に祭り上げられることもなく、再び尖閣諸島に出没することもなく、消え去ってしまったようです。怖い話になりそうですが、もしかしたらその船長は、この世の中から抹殺されてしまったのかもしれません。同様に考えて、もしも、小説家の司馬遼太郎氏が坂本竜馬のことを過去から発掘しなかったら…、と思ったら、やはりちょっと怖い気がしました。