『反日』とは何か?―私なりの見解―

 なぜ今このタイミングでこのことを問題にするかと申しますと、世の中でこのことが注目されない今でこそ、この問題を冷静に考えることができると思うからです。『反日』とか『反日感情』とか『反日運動』とか『ジャパン・バッシング』などという外国人の言動を見たり聞いたりすると、私たち日本人は、胸がバクバクしてしまいます。とても冷静ではいられなくなるのです。
 歴史の専門家でもない私がこんな話をするのはふさわしくないかもしれません。しかし、『反日』とは何なのか、『歴史認識』とはどういうものなのかを日本人はちゃんと考えるべきなのです。そこをあやふやにしてきた日本人の過去は、外国人に対して誠(まこと)に失礼千万だったと言わざるを得ません。(もっとも、そのことに気が付いていない日本人の多いことは事実です。私もその一人だったと思います。だからこそ、今この問題と向き合ってみたいのです。私なりに考えてみたいのです。)
 ここで、私なりの解釈をしてみたいと思います。中国や韓国の人たちは、慰安婦問題や軍国帝国主義の問題で、日本を批判します。いつまでも過去の日本の悪事を根に持っているように見えます。今まで私も、そのように見ていました。最近の日本政府の対応も、「いつまでも過去にこだわらずに未来志向で行きましょう。」というメッセージを彼らに発信していると思います。
 確かに、それは相手への説明になってはいると思います。しかし、私は日本人自身はどうなのかと考えるのです。私は、誰にもわからない未来において、「やっぱり日本人の性根(しょうね)は変わっちゃいないじゃないか!」と外国人の彼らが落胆するような気がしてならないのです。「そんなことは、未来のことだから、わかるわけないじゃないか。今が良ければいいのさ。」と日本人の専門家さんはおっしゃられるかもしれませんが、そうではないと私は思うのです。現在の彼らは、現在の私たちに問うているのです。それは、現在一回きり、しのげばいいことではなく、これから将来何度でも私たち日本人に問い続けてくるものなのです。要する、国交とか外交は面倒くさいものなのです。
 それは、過去に『戦略的互恵関係』と言いつつも、互いの国境付近で何かありそうな不安がある現状から明らかだと思います。大人の世界は複雑で難しいことが多いのだ、と言いわけしたいところですが、国際関係にそんな思考停止が通用するはずがありません。日本人は、逃げてばかりいて卑怯だ、と思われるだけです。
 じゃあ、私たち日本人はどうしたらいいのでしょうか。その答えの一つを、私は以下に示したいと思います。私たち日本人は、『反日…』と聞いただけで、嫌な気持ちになってしまいます。なぜそうなってしまうのか、私たち日本人は知っておく必要があります。そして、それがどんなにツラいことであっても、『反日』の本当の意味を理解しなければなりません。
 人間は、いつ、どこで生活していてもバラバラなものです。だからこそ、日本人は『仲良し意識』を大切にするようになったと考えられます。『仲間意識』とか『村意識』とか『コミュニティ』といったものに支えられて、日本人はこれまで成長してきたと言えます。それらの意識は、日本人特有のもので、外国人が真似をすることは難しく、理解しにくいことのようです。理解できたとしても、かなりの努力を必要とします。
 例えば、日本人は人使いが荒いことが昔から多く、外国人から見たら、強制労働に見えてしまうことが多いような気がします。外国人として特別に優遇されないかぎり、普通の日本人と同じように働かされたら、とても耐えられないと思います。
 それよりも問題なのは、日本人の間にある『仲良し意識』です。それを共通の意識として持っている人たち(集団)の間では、互いの人間関係に良く作用しています。けれども、その共通意識を外れて、一人勝手なことを始めた人には、その集団はたちまち冷たくなります。俗に、村八分とか、『いじめ』のメカニズムが働き出すのです。
 私は、このことを小学生の頃に実際に目撃しました。私自身が直接いじめに合ったわけでもなく、いじめに加担したわけでもないのですが、転校生の在日朝鮮人の子がいじめられました。これは、明らかに朝鮮人差別でした。彼は日本人の名前でしたが、乱暴で言うことを聞かない様子でした。私は、直接彼と遊んだことはありませんでしたが、私のクラスの友人たちは、彼のことをよく知っていました。彼のことを知れば知るほど、みんなと違うことに気づいて、彼をみんなでいじめるようになってしまったのです。
朝鮮人差別の問題については、もっと述べたいことがあるので、記事を改めて記述したいと思っています。私は日本人であるにもかかわらず、従軍慰安婦のことを全く知りませんでした。私の家族や親族は、従軍慰安婦にお世話になるどころか、会ったことも見たこともなかったようです。従軍慰安婦のことは、私には全くわかりません。けれども、在日朝鮮の人たちのことは、実際に街で目にしたこともあるので、いろいろと書けると思います。)
 私は、子供の頃から、日本人としてはちょっと変わっていたので、クラスの友達とはそれほど親しくはなりませんでした。おかげで、朝鮮人を差別する意識、つまり、雰囲気に染まらずに済みました。当時は、(私自身が子供のくせに)子供は残酷だな、くらいにしか考えていませんでした。しかし、仲良し意識に支えられた集団から異質のものを排除しようとする『心の冷たさ』は、今も昔も変わらない日本人の性根(しょうね)なのかもしれません。
 戦時中の『鬼畜米英』などという言葉は、日本人のそうした『心の冷たさ』を表しているとするには、説得力に乏しいと思われます。それよりも、『シナのチャンコ』という言葉が、戦前・戦中時に日本の庶民の間で言われていたそうです。(私の祖父から聞いた話です。)そして、戦後、朝鮮半島で韓国と北朝鮮が国家として独立すると、日本では朝鮮人差別がひどくなったようです。
 私の意見で申しわけありませんが、日韓併合とか宋氏改名とか植民地支配とかを日本が無理やりやったと専門家の方は言われますが、これらのことは日本人が朝鮮人を人種差別しないための方策であったとも考えられます。そのかわり、戦時中は中国人に対する差別がひどかったようです。(中国本土の農村部で、日本軍がゲリラ戦で相当やられていたせいもあったようです。)ただし、戦時中に日本軍で出世した朝鮮人の将校さんを、朝鮮人ではない、日本人だと言い張るのでしたら、私は韓国の歴史認識に従うしかないな、と思っています。
 それらの話から見えてくることは、そうした行状の日本人たち(集団)を、外国人が人間として嫌っているというイメージです。ところが、現代の日本人は、平和国家をかかげて、外国人に嫌われないように、何か取り繕っているように見えるのです。外国人からすれば、それがまた気に入らないのです。
 ズバリ言わせてもらいます。『反日』とは、日本人に対する差別なのです。確かに、女性差別にしても人種差別にしても、『差別』はいけないことです。しかし、戦前・戦中の中国人に対する差別、戦後の在日朝鮮人に対する差別を日本人がしてしまったことが、問題なのです。近年、日本人は『差別をする側』になっても、『差別される側』にはならなかった。その『差別される側』にならないように、狡(ずる)く巧みに逃げていた、という経緯(いきさつ)が『歴史的に』あります。よって、『反日』や『反日感情』や『反日運動』を日本人に示すことによって、日本人に『差別される側』の気持ちや立場を思い知らせてやりたい、というのがこの『差別』の意図なのだと思います。
 『反日』によって『差別される側』にまわった私たち日本人は、どうするべきか、ということを述べましょう。差別されたからといって、悲しむべきでしょうか。それとも、卑屈になるべきでしょか。私の答えは、いずれも”NO”です。確かに『差別』はいけないことですが、「ピンチをチャンスに変える」頭を持って欲しいものです。現に、朝鮮人差別を受けてきた在日朝鮮の人たちが、この日本で頑張っている例がいくつもあります。私たち日本人も、外国人から差別されたくらいで凹(へこ)んではダメだと思います。