難解だったレポート課題に再挑戦!

 以前私のブログ記事で、「ユダはなぜイエスを裏切ったのか?」その理由を小説の形式で説明せよ、というレポートが、社会経験や人生経験の乏しいオタク学生の私にはうまく書けなかった、ということを書きました。仕方なく、「ユダには金銭欲があった。」とか「ユダはイエスを愛していたので、イエスを裏切ったのは必然だった。」とか、誰かが書いた『ユダの裏切り』についての説を借用して、それをレポートに書き写すので精一杯だった、と書きました。
 この『ユダの裏切り』は、キリスト教新約聖書における一大ミステリーで、本当ははっきりしたことがわかりません。諸説いろいろとあるのですが、どれが真実だったかはわからないのです。それに、今月下旬には、キリストの誕生日(注:コメント参照)を含むクリスマス節(シーズン)もあるので、改めてこの課題に向きあってみようと私は考えました。
 実は、この『ユダの裏切り』については、私の中では何度か考える機会がありました。私は、キリスト教徒ではありませんが、文学的な興味から、欧米の文学の翻訳物を読んだり、それに影響を受けた日本の文学を読んで、若干の関心を若い頃から抱いていました。
 太宰治さんの『駆け込み訴え』を、中学生の頃に『太宰治全集』を学校の図書館から借りて読んだことがありました。しかし、あまり感銘を受けませんでした。『走れメロス』と比べると、物語の内容が地味でした。そのため、あの「ユダの裏切りの背景を小説形式のレポートで述べる」という課題を与えられた時には、太宰治さんの小説『駆け込み訴え』のことは、すっかり忘れていました。今でこそ、ネット上の青空文庫で、その小説の本文を読んで、ちょっと面白く感じますけれども、もしその小説に感銘を受けていたら、学生時代にコピペ(いわゆる書き写し)していたかもしれません。
 私が、次にこの課題に興味を持ったのは、社会人になって過労死しそうなくらい昼も夜も会社で仕事をしていた頃のことでした。仕事がどうしても終わらなくて、徹夜を続けていたある日の午前3時の頃に、「人も社会も信じられなくなった」20代半ばの私の頭の中には、ふと、こんな言葉が浮かびました。「ユダがイエスを裏切ったのは、ユダがイエスを本当に愛していたからなのだ。」私の心がそう思ったのは、極限状態だったからだと思います。言い換えれば、その時のどうにもならない私の心理状態が、そんな変な言葉を考え出させたわけです。
 私は別に同性愛を差別しているわけではありませんが、当時の私の心理状態は、やや異常だったと判断しています。30代に入ってからの私は、「男性のユダが男性のイエスを愛していた。」というのは、自然な表現(あるいは、一般的な表現)ではないように思えました。50代半ばの今になって考えてみると、「ユダはイエスを自慢の師匠として、ひいきにしていた。あるいは、あがめていた。」というのが、適切な表現だったと思います。
 ところで、30代の私には、「もしも、イスカリオテのユダが女性だったとしたらば」という仮定が、思いのほか新鮮に思えました。「実は、ユダは女性で、その女性が、男性のイエスを愛していた。」というのが、より自然な表現のように思えました。そこで、30代の私は、以下に示す『ユダの恋(2015)』という小説のもとになる物語を書きました。それによって、私は、過去にうまく書くことのできなかったレポート課題に再挑戦を始めることができました。
 40代そして50代の私は、そのもととなる物語に推敲を繰り返して、小説の形式に整えていきました。序文を付けたり、本文を女性の告白にして、章を分けたり、従来の表現を添削していくうちに、今の小説の形が出来てきました。タイトルに、今年の西暦年号を付けた意味は、この小説が私の全くの趣味で、今後も文章表現が少しずつ変化するかもしれないため、これが現時点での決定稿であることを示したいからです。



小説  ユダの恋(2015)



序文 (ユダの正体に関する一つの仮説)


 ナザレのイエスは、ヨハネの洗礼を受ける前に一人の女性と出会っていた。しかし、誰もそのことを知らなかった。その女性の身元は不明である。その記録さえ残っていない。だから、これから語られる一人の女性の告白は、フィクションにすぎないのである。そういう事情であれば、この告白が、新約聖書に記されていなくても何の不思議もない。
 この告白は、イスカリオテのユダが本当は何者であったのか、なぜユダはイエスを裏切って、なぜ後悔したのか、ユダはイエスを本当に愛していたのか、イエス・キリストの説く『愛』とは一体何だったのか等々の疑問に、一つの答えを与えてくれるであろう。それらの疑問に答えを与えてきた、他の数限りない解釈や議論に対して、また一つの新たな事実の可能性を付け加えるものとなるであろう。



本文 (名もなき女性の告白)



1.出会い


 私が『あの人』と初めて出会ったのは、彼がヨハネさんから洗礼を受けることになったヨルダン川のほとりにほど遠からぬ所でした。ところで、その頃の私には、彼とは別に男がいました。その男は、妻子がいて、大した魅力もありませんでしたが、私はその男の情婦になっていました。
 その男は、(重ねて言いますが)それといって取り柄の無い、不潔でつまらぬオヤジでした。けれども、私の所へまめに通ってくるので、相手をしていました。初めのうちは、私みたいな女によく引かれるものだという、その驚きだけで私は心が燃え立ち、そのまま快楽に溺れていました。けれども、その男との関係が長びくにつれて、いつしかそれも惰性へと変わっていきました。
 やはり私は、私を幸せにしてくれるような男性には、巡り会えなかったのだ。という思いで、心はいつも落ち込んでいました。その男に甘えることで一瞬、その悲しみを忘れることはできたのですが、そんな絶望的な思いが、若さと生気に満ちていたはずの、私の心を確実にむしばんでいきました。結局、私は、この荒れ果てた世の中の流れに漂う、枯れ葉の一枚にすぎなかったのです。いかなる奇跡が起ころうと、そう考えずにはいられませんでした。
 妙に空が晴れ渡っていたその日も、私はただの水くみ女として、重たい桶を胸に抱えて、あのヨルダン川へ向かう途中にいました。『あの人』は、川のほとりからこちらに向かって歩いてきました。それだけならば、お互いただの通りすがりで終わっていたはずです。ところが、その時に、今まで思ってもみなかったことが起きてしまいました。『あの人』は、いきなり私に目を向けて、何かを話しかけてきたのです。
 内心あたふたしながらも、何とか私は、『あの人』の視線を視線で、『あの人』の言葉を言葉で返すことができました。ふと、そんな私の意識は、『あの人』の目に吸い寄せられてしまいました。すると、その瞬間に、長い間私の中に押し込められていたある種の感情が目覚めて、急に心の外へと解き放たれました。それは、初恋の時に味わうことのできる、あるいは、その『初恋』の時にだけ生じる、トキメキ感でした。
 その時、『あの人』の心のうちにも同じような感情がわき起こったようでした。それだけではありません。少なくとも、『あの人』にとって、それは「起きうるはずのない」奇跡だったようなのです。
 それにひきかえ、三十を過ぎて、すでに身も心も汚れていた私にとって、そんなトキメキは、奇跡でもなんでもありませんでした。不幸な一生のうちの骨休みか、一瞬の気晴らしに、それは間もなく変わってしまいました。
 なのに、『あの人』は突然、再び私と目と目を合わして、「ちょっとここに腰をかけて話をしませんか。」と言ってきました。初対面であったにもかかわらず、私はうなずいてそれに従いました。どうしてあの時、『あの人』の言葉に従ったのかは、いまだによくわかりません。『あの人』の言葉に乗せられてしまったのは確かです。そんな私自身に、やましい気持ちは少しも無かったはずです。
 それからの短い時間、私は『あの人』と話をしました。『あの人』は、ふざけた様子もなく、かといって、お固い理論をふりかざす様子もありません。初対面であったにもかかわらず、私たちの間には、なにか気の合う長年の友達同士という感じが漂っていました。なのに、私は、この時もまた心が落ち込んでいて、あの人の立場を思いやる余裕もなく、話はいつしか私の身の上話になっていました。
 私は、年頃になると、ほかの娘たちと同じように、素敵な男性と巡り会えることを夢見ていました。しかし、それから悪夢のような出来事が起きてしまいました。それらの出来事を、まるで私の口が私の口でないかのように、淡々と話していきました。
 ああ、あの出来事さえなかったら‥‥。あの頃、若さで肌も美しかった私が、素敵な男性に出会えそうに思えたその矢先に、両親と別居して間もなく、私は盗賊に襲われてしまいました。わずかの貯えであった金銭を奪われただけでなく、私は、十日間、盗賊のねぐらに閉じこめられて、身も心もぼろぼろにされてしまいました。それ以来、私は変わってしまいました。この世に美しい愛など無いのだ。あるのは人間の汚い欲望ばかりではないか。その濁流の中を木の葉のように漂って、私は生きてきたのだ、と。
 そこまで話をして、ふと、『あの人』の目を見ると、その目は悲しみに満ちていました。きっと、私の醜い半生を知って後悔しているのだろうと思いました。とその時、『あの人』の目から、涙が一しずく、また一しずく、こぼれ落ちました。突然『あの人』は、正面から私を見すえてこう言いました。「ぼくはきみが好きだ。」と。
 ここまで、ただの気休めの時間だとしか思っていなかった私にとって、その言葉は意外でした。何とか笑顔で冗談を言って、その場をごまかしました。けれど、『あの人』の実直そうな目線は、私の厚化粧をした肌をつき抜けて素肌に達していましたし、私のつけまつ毛や耳飾りなど吹き飛ばしてしまうほど強いものでした。
 『あの人』が、こんな瞬間にこんなにも光り輝いて、善良で強くなれることを、私はうらやましく思いました。むしろ、私は、そんな『あの人』の様子を妬(ねた)んでいたのです。「この男を、私に従えることができたらどんなにいいか。この男が、私だけのものになったら、私だけに夢中になって、私だけを愛してくれたらどんなにいいか。」と、私は心の中でつぶやいていました。
 ところが、『あの人』は何を思ったか、すぐに私にこう告げてきたのです。「ぼくは今、決意した。三十を過ぎて、自分は何をすべきか、ということがわかったのだ。これからヨハネの所へ行き、洗礼を受けよう。そしてユダの荒野へと旅立とう。断食と祈りの生活の中で、悪魔の誘惑から、自らを守り続けよう。」
 そう言い終えると、『あの人』は私をその場へ置き去りにしたまま、一人でヨハネさんの所へ行ってしまったのです。私は、余りのことに呆然としてしまいました。『あの人』は、私を好きだと言ったではないか。なのに、私を一人残して行ってしまうなんて、この仕打ちはひどすぎる。『あの人』の決心が一体何だったのか、その時の私には全く理解できませんでした。



2.思い


 月日は流れ、『あの人』は世間から注目されるようになりました。私が、『あの人』に初めて出会った時、『あの人』は普通の男でした。女を誘い、口説こうとした、普通の男でした。それが今では、多くの人々の注目を浴びて、何かとてつもない大きなことをしようとしていると評判になっていました。だけれども、『あの人』のしていることは神の仕業なんかではなく、ごく当たり前のことを普通に行っているだけだということが、私には理解できました。
 『あの人』の普通の言動や行動が、噂として多くの人々に伝えられていくうちに、話しに尾ひれが付いて、一つ一つ奇跡となって伝えられていきました。『あの人』は、多くの恵まれない、不幸な人々のうちに奇跡を呼び起こすメシアとして祭り上げられて、さらにその評判が伝えられていきました。
 こうして、周りの人たちが騒ぎ出しても、私にとっては、『あの人』は相変わらず普通の男でした。私のような堕落した女に恋をして、他の男と変わらないエッチな気持ちで私と二人だけで話をした、ただの男だったのです。私が忌まわしい半生をしゃべらずに隠していたら、今ごろはきっと私を手ごめにして、ものにしていたに違いない。だから、なおさら悔しく思えるのです。『あの人』は、私の心のうちに奇跡を起こしてくれませんでした。私は今だに、あのつまらぬ男の情婦でしたし、過去の修羅場に心を痛めて、心身共に衰えていく三十過ぎの女でしかなかったのです。私は、今このようにして、心を静めて言葉を残しているけれども、あの時の私は、『あの人』への恋に一途で、あとは何も見えませんでした。
 やがて、私はあることを思いつきました。『あの人』の心を何とか奪い取ろうと思いついたのです。そのためには、『あの人』との接点がどうしても必要でした。何らかの形で『あの人』と接触できさえすれば、『あの人』はきっと私のことに気づいてくれるに違いない、と思いました。そして、全てを捨てて死にもの狂いになって、私を追いかけ回してくるに違いない。三十を過ぎて、胸が若い頃よりしぼんでしまったとはいえ、私には普通の男を引きつける魅力がまだ残っている、と思っていました。そのことは、あのつまらぬオヤジとその仲間たちを、これまで何度も魅惑してきたことからも明らかなことでした。
 『あの人』は、私からの誘惑をおそらく退けることはできないだろう。なぜならば、『あの人』は私を好きだと言ったのであるから、どんな困難が待ち受けていようとも、私をものにしようと努めるに違いない、と思っていました。
 私はあのつまらぬ中年男に言い寄って、『あの人』に会えるチャンスをつくってくれるよう頼んでみました。男は、最初、気が進まない様子でした。自ら危険をおかしてまでやりたくはない、という素振りをみせていました。私は、『あの人』への思いで張り裂けそうな心を抑えて、その男に身を任せてしまいました。あの男は、またもやその汚い手で私の体をまさぐり、私の心を辱(はずかし)めてから、やっと「何とかしてやる。」と、卑しい笑いを浮かべながら承諾してくれました。
 やがて、男は、ユダヤ教の祭司長たちの所へ行き、まんまと銀貨三十枚を巻き上げてきたと、自慢して言いました。それから『あの人』とその弟子たちがどんなにひもじい晩飯を食べているかを見てこよう、と言って、男は私の前から立ち去りました。私は、一仕事を終えた後の安心感に囚われて、しばしうとうとと眠りについてしまいました。



3.裏切り


 急に肩をゆすぶられて起こされると、あの男が私の耳元でこうささやきました。「あいつに会わせてやる。ただし、俺の言うとおりにしろ。あいつと出会ったら、あいつに接吻しろ。それが合図だ。」「合図って。」そう私は、聞き返しました。「やつは敵のまっただ中にいて、だいぶ危険な状態にいる。おれはやつと打ち合わせていて、おまえがやつに接吻するのを合図に、やつの逃亡を助けることになっている。」それを聞いて、私はこの時ほどこの『能無し男』を頼りになると思ったことはありませんでした。私はうなずき、何の疑いもなく布で体を覆って、約束の場所へと向かいました。
 約束の場所に、一人もの寂しく『あの人』が立っていました。私は『あの人』のそばへ駆け寄り、言葉よりも先にその瞳を間近で見つめました。『あの人』は、初めて出会ったあの日と同じまなざしで、私を見てくれました。私は再会の喜びに胸をときめかせて、あの人に接吻しました。いきなりのことに『あの人』は戸惑うかもしれない、と予想していました。にもかかわらず、『あの人』は落ち着いていて、私のなすがままになっていました。
 とその時、私達の周囲が騒がしくなったと思うや否や、私は固い地面の上に叩きつけられていました。武装した多くの人々に取り囲まれて、『あの人』は私に声をかける間もなく、連れ去られてしまいました。私は、片やぼう然として、目の前で起きたことを容易に理解することができませんでした。しかし、よくよく考えてみてわかりました。あの男が私をだまし、私を良からぬことに利用したことは明らかだったのです。
 その後の私が何をしたかは、申し上げるまでもないことかもしれません。私は、私のそばで眠っていたあの男の虚をついて、あの男を吊るし首にしてやりました。がしかし、それでも私の気持ちは納まりませんでした。『あの人』がはりつけの刑に処せられたと聞いて、私の身と心はばらばらになりました。病が体をむしばみ、恋をしていた心もうつろになり、私の残り少ない命の上に死だけが静かな影を落としていました。



 この小説を読んでみられるとわかりますが、純文学ではありません。一般的に見ると、サスペンス・タッチの内容です。「ユダはイエスをなぜ裏切ったのか」という謎に迫るために、できるだけ新約聖書の記事、つまり、新約聖書に書かれている出来事の内容と矛盾しないように、書いていきました。新約聖書に書かれていない部分を空想して、いわゆる小説の形式にまとめてみました。
 また、私自身の趣向としては、「こんな告白をする女性がいたら、面白いだろうなあ。」という妄想によって物語を書いてみたのであって、別に深刻なテーマがあるわけではありません。多少、ドロドロした昼ドラのタッチで物語が表現されていると、言えるかもしれません。
 今回の小説は、学生時代に難解で書けなかったレポート課題が、社会に出て経験を積むうちに書けるようになったという、私の実例を示していると思います。私にとって、このような小説が書けなかった未熟さ、つまり、『若さ』とは一体何だったのか、ちょっと考えさせられます。若さゆえにできることがある、という一方で、若さゆえにできなかった、あるいは到達できなかったことも少なくない、と言えるかもしれません。