私の本業 灯台もと暗し…

 今日の日中に、炎天下の中で、私はズッキーニの畑で作業をしていました。ところが、私は作業中に、窮地に陥ってしまったのです。いつもは用意して買ってある、ペットボトルのお茶が、ほとんど無いことに気がついたのです。どうしても、その時にやっておきたい作業の最中だったため、少し離れたスーパーマーケットへ飲み物を買いに行くことを思いつきませんでした。
 私は、喉(のど)がカラカラになって、危険な状態になってしまいました。すると、目の前にトマトの木を一列に30本ほど縛りつけていた柵が、ふと、私の目に入りました。それらのトマトの木々には、『おどりこ(踊り子?)』という品種のトマトがいくつも赤くなって、ぶら下がっていました。『おどりこ』は、従来からある大玉トマトの品種の一つで、従来の、いわゆるトマトっぽい食感があります。
 しかし、私の栽培の仕方が悪くて、トマトのヘタ近くに裂け目を3つも4つも作ってしまい、JAはもとより、地元の農産物直売所にも売りに出せない物になってしまいました。それで、木の上でトマトのほとんどが、熟して赤くなっても、ほとんど収穫せずにそのままにしておくしかなかったのです。それを、必要な時にもぎ取って、私自身が口にするなどということは考えてもみませんでした。
 ところが、熱中症か日射病にかかりそうなくらい、喉がカラカラで危険な状態だったので、私は、その失敗作だらけのトマトの玉に手を伸ばして、即座にかじってみました。さすが大玉のトマトだけあって、水分がありました。それによって、私は救われて、炎天下の窮地を脱することができました。
 そのことを後になって反省してみると、毎日身近に作業している場所でいつも目にしていながら、そのような緊急の目的で、それらのトマトの木々を見たことがありませんでした。その栽培の工程に何かと手間がかかっていたことしか、私の記憶にはありませんでした。すなわち、トマトの木を縛りつけるために、ねぶし竹で柵を組み立てたり、側枝の芽かきに時間を奪われたり、木を縛りつけるための麻ひもを用意していました。大袈裟なのかもしれませんが、こんな形で命を救われてみると、灯台もと暗し(灯台のすぐ下が暗いように、手近な事情はかえってわかりにくい。)ということの意味が、実際に、身にしみてよくわかりました。
 そこで、そんな私に思い出されることが、もう一つありました。かつて私は、二十歳の大学生の頃に、ジョン・スタインベックさんの『怒りの葡萄』という小説の翻訳を、新潮文庫で読んだことがありました。その読書は、全くの私の趣味でした。
 問題は、その小説のラストシーンにありました。主人公たちにとっては見も知らないおじいさんが、食べ物を口にできないほど衰弱して、最期かな、とその場にいた誰もが思いました。そのおじいさんを助けようと思ったが、どうにもならないのです。すると、主人公たちから出た一つの提案で、最近流産した若い娘さんのおっぱいの乳を、そのおじいさんに飲ませて、その命を救おうということになりました。衰弱しきったおじいさんの口元に、彼女が乳首を差し出すところで、この小説は終わっています。
 あの頃の二十歳だった私には、このラストシーンの意味するところが、つまり、作者の提示する価値観というものが、どうしても理解できませんでした。あの頃の私は、「キリスト教的な小説の内容だとはいえ、きっと私は一生、このラストシーンの意味するところを理解できないだろう。」と思っていました。
 しかし、あの、灯台もと暗しの実体験をした私には、その、ある意味では反道徳的な行ないが、決して不自然なことではないと考えられました。確かに、この作者の作品を、当時の批評家さんたちが酷評して、嫌っていたのは事実です。でも、このジョン・スタインベックさんが、当時の批評家さんたちの誰よりも、豊富な人生経験をしてきたことも、やはり事実だったと思います。言い換えれば、彼のそれまでの人生経験が、当時の批評家さんたちのそれを、はるかに上回っていたことは事実だっだと言えます。
 『怒りの葡萄』という長編小説を、個人的な趣味で読破した二十歳の私は、この作者の自伝を英文テキストで読むゼミナールに参加していました。その自伝から知ったことは、彼が農家の出身ではなく、むしろシティー・ボーイだったということと、流動的なアメリカ社会の中で20いくつもの職業を転々として、いろんな職業的キャリアと人生経験を積んでいたことです。彼には、ジャーナリストという肩書もありましたが、そうしたいろんな職業の世界を経験したことは、小説を書く上でかなり役に立ったとも述べています。
 もちろん、当時のアメリカ文学の批評家さんたちが間違っていたとは、私は言いたくありません。どんな文学作品をも快く鑑賞したい、というのが彼らの変わらぬ願いだったと思います。その一方で、ジョン・スタインベックさんの《現実の人生経験》に即した文章表現というモノも、捨てがたいと思います。そこには、作り話の作家(創作家)の立場というよりも、ジャーナリストとしての立場が強かったと、一般的な評価として言われています。
 私が、あの『灯台もと暗し』の経験から学んだことは、どうにも格好良くならない現実と、その絶対的な必要性だったのかもしれません。