コロナ禍に読む小説『正義派』について

 この小説は、志賀直哉さんという小説家によって大正1年9月に執筆されたと言われています。新潮文庫の『清兵衛と瓢箪・網走まで』(昭和43年9月15日初版発行、平成23年9月15日70刷改版)に収められた短編集の一作品として読まれてきました。令和3年の今年の秋で、志賀直哉さんの没後50年となります。そんなこともあって、今回は私がこの小説を読んで考えたことを書いてみたいと思います。
 まず新潮文庫の本書巻末解説(国文学者の高田瑞穂氏、昭和43年9月著)から引用します。「…『正義派』は、「興奮と努力と」をもって正義を支えた人間が、そのために味わわなければならなかった「物足らない感じ」の表現である。…」とあります。この小説では、人が「良かれ」と思ってやったことが十分に報われるとは限らない、という現実が読み取れます。後の『小僧の神様』に通ずるテーマですが、誰しもが経験するような苦悩が描かれています。そのような、道徳的に正しいことをしたのに、それに見合った実感が得られないということは、現代に生きる私たちでもよくあることだと思います。
 最近話題の『自粛警察』のメカニズムを知りたいと思って、私はこの『正義派』という小説を読み返してみました。正義を振りかざした者は、その熱が冷めた時に、自身の立場を悪くしたことに初めて気がつきます。だからこそ、際限なく、その見返りが欲しくなるのかもしれません。そしてまた、他人に対する不安や不満、すなわち、自身の満たされない心とも向き合わなければならなくなります。
 正義感から事故の証言をした当初は、仕事をクビになることすら何とも思っていなかったのですが、「段々に愉快な興奮の冷めていく不快」感や「報わるべきものの報われない不満」によって、今の仕事をクビになっちゃうかもと彼ら3人の線路工夫は思うようになります。彼らが期待していたほどに、周囲の人々が注目してくれなかったことに、悲哀が感じられました。つまり、『正義派』の彼らにとって、世間の日常的な平穏は、多分に事なかれ主義に見えたのかもしれません。………
 さらに私は勝手な想像をしてみました。彼ら3人の線路工夫のうちの「眉間(みけん)に小さな瘤(こぶ)のある若者」とは誰かということです。志賀直哉さんの顔写真を見た人にはわかると思いますが、その作中人物は志賀直哉さんの分身ではないかと、私は思っています。作者は、芝居や映画を観るのが趣味だったと、ネットのウィキペディアなどには書かれています。普通は見逃してしまいがちな仕掛けですが、この作品の面白さの一つかもしれません。その若者の言動に注意して読んでみると、この小説の作者の『正義』に対する考え方がわかって、興味深いと私は思いました。
 冷静に考えてみますと、昨今の『自粛警察』もそうですが、「何が正しくて正しくないのか」に絶対はないはずなのです。にもかかわらず、『正義』を主張してみたくなるのが、日々不安や不満を抱える私たちの『弱さ』なのかもしれません。けれども、決して、我慢をして黙っていろ、というわけではありません。何を主張しても本当はいいのです。その主張に固執して、無理に『正義』を振りかざさなければいいのです。多様性を社会が受け入れるということは、一つの『正義』にとらわれない、すなわち、一つの『正義』を全てとしないということだと思います。