複数の正義に迷うあなたへ

 今から思い返せば、あれは7月の10日あたりの週以降に突然作業が忙しくなりました。それ以来、このブログを書く自由を完全に奪われました。今年の私には、夏休みも、秋の連休もありはしない。あるのは、夏忙しと、トラブル続きの連日でした。キュウリとお米によって仕掛けられた戦争、いや、戦争という言い方は庶民的な言い方だ。特別軍事作戦と言わなくてはならぬ。だから、「戦争で人が死んでいる。」という言い方も、「特別軍事作戦の行政大執行で、犠牲者が出ている。」ということになる。私は、よろこんで犠牲者になろう。そういうふうに考えると、20世紀に逆戻りしたというのは正しくなく、21世紀的に時代は新たに変化していると見たほうが妥当なのかもしれません。

 私は、これまでの民主的にデモに訴えるやり方は旧(ふる)いと思います。そんなもの、地球上のさる場所では、完全武装の鎮圧部隊によって、いとも簡単に壊滅させられてしまいます。そこには、人間の尊厳などありはしない。あるのは、武器を持たずに戦わなかったことへの後悔です。そして、そこでは、犠牲になった人々の(実体を失った霊的な)怨みしか残りません。

 それはさておき、正義は人の数だけあるとも言われます。独裁的な者は、それを一つにまとめようとする。しかし、その犠牲になった人々の側に立てば、何を正義とするべきかは、科学的に定量化して見えてきます。各人でよく考えてみてください。私の持論では、こうです。その背景にどんな正義があろうとも、どんなに愛国心があろうとも、どんなに英雄的行為で戦えたとしても、殺人やレイプや略奪をしてしまったならば、それを正義のためだと主張できるのでしょうか。それらの回数が多いほど、それを正義と主張できなくなることは、火を見るよりも明らかだと私は思います。それはすでに、引き分けどころか、負けではないでしょうか。それを挽回しようと、核兵器を使っても、その汚名は返上されません。今のうちに、その当事者には自爆への道が残されていることを暗示しておきます。

  いっそのこと、そんな正義なら捨ててしまいましょう。もっと悪いことやズルいことを思いついた方が、人間らしくて利口かもしれません。無理して、正義の味方をしているよりも、気楽に生きて行けるかもしれません。「その正義のために犠牲になろうと、あるいは、その正義を捨てて生き延びようとも、結局は、各人の自由だ。」というのが、人類の民主主義的な答えの一つです。複数の正義に迷ったならば、そのような正義に振り回されない、しっかりした思考を是非ともしたいものです。