映像の意味するもの その2

 まず、前回のおさらいをしておきましょう。『トビー・ダミット』という映画では、主人公の視点が映像化されていています。その特異な映像(および音響)は、アルコール依存症の主人公がもしも見たり感じたりしたら、こんなふうではないかという仮定に従って構成されて(作られて)います。アルコール依存症により心身ともに不健全になっているこの主人公にとっては、ありふれた日常的な物事にさえも、恐怖心や不安感を抱かずにはおれないようです。それを映像と音響で表現するならば、こんなふうになるのです。
 ここで、以前『怖い話 その5』で述べた、ポーの小説の特徴を思い出してみましょう。ポーの小説は、基本的には一人称小説で、私たち読み手は、小説中の語り手(主人公)の視点で物事を見たり感じ取ったりすることになります。
 それがポーの小説の特徴なのですが、同時にそれは彼の小説の映像化を困難にしている原因になっています。ポーの小説の映画化やテレビドラマ化のほとんどが、原作に忠実に行われるのではなくて、原作の内容を曲げて翻案になることが多いのはそのためではないかと私は思います。原作をそのまま映像化しても、私たち受け手に原作の真意はうまく伝わらないようなのです。
 私が考えるに、フェリーニ監督はアルコール依存症の主人公の視点を借りて、主人公の目線や意識を映像化し、それを私たち受け手が理解することを期待していたように思えます。それは、あたかも上に述べたポーの小説の手法を、この映画の手法に取り入れたかのようです。言ってみれば、この映画は主人公トビー・ダミットの『一人称映画』なのです。私たち映像の受け手は、この主人公と同一の視点でこの映画を見ていることを、もっと意識するべきだと思います。
 ところで、もう一つ私が気になったのは、目の不自由なベテラン・コメディアンの言葉です。「私の目を見なさい。片方は猫の目ですよ。」という彼のスピーチの言葉に、周りの人たちはワッと笑います。目の不自由なコメディアンが言うことによって、芸術性のあるお笑いになっていて、トビー・ダミットに人生の深い哀愁を感じさせて悲しげな笑いを誘っています。しかしながら、この言葉にはもう一つ隠れた意味があります。誰も気づいていないかもしれませんが、ポーの小説『黒猫』で主人公の語り手が、飼っていた黒猫を虐待するシーンとつながっています。『黒猫』の主人公の『私』は、残虐にもその黒猫の片目をくりぬいています。つまり、そのベテラン・コメディアンは、片目を失くした黒猫の身になって、同情しているふうにも見えます。このことは、直接本編のストーリーと関係ないかもしれません。けれども、そのことはこの映画を作ったフェリーニ監督の、ポーの小説への思いとかこだわりとかを私に感じさせます。
 そういえば、この映画の音楽で『トビー・ダミットのテーマ』と呼ばれるものを聴いてみてわかるように、(原作者ポーのイメージがそうだとするならば)それは『黒猫』のイメージに違いありません。それは、あたかも黒猫が軽やかにあちこち駆け回るイメージを表現した音楽に感じられます。
 ただの妄想に過ぎないかもしれませんが、私は次のように想像しました。フェリーニ監督は、ポーの『黒猫』を本当は映画化したかったのではないか。しかし、(『怖い話 その4』で私が述べたように)この小説の映像化がもともと困難であることと、あまりに皆によく知られた小説であるために、映画化した作品をひどく批判されることを恐れていたと考えられます。それよりか皆にあまり読まれていないコント風の『悪魔に首をかけるな』を映画の原作として選んだと考えられます。
 この原作も映画化に際して翻案化されましたが、原作を上回る映画の完成度に救われました。原作者ポーの小説の手法がこの映画に上手く引き継がれたことが、その成功の原因ではないかと、私は見ています。どの小説を原作として選べばよいかということよりも、ポーが小説を通じて読み手に伝えたいと思っていた何か(例えば、ポーの原作の小説が共通に持っている雰囲気とか)が、この『トビー・ダミット』という映画にうまく集約されていて、私たち受け手に(多少わけがわからなくても、感覚的であっても)うまく伝わっていると言えます。