私の本業 月明かりの下ではぜかけを続ける

月が出た、丘の上に人が立つてゐる。帽子の下に顔がある。(萩原朔太郎『蛙の死』より引用)
 昔、テレビで見たウィスキーのCMで、花札の月見の札を見せて、「帽子の下に顔がある。」という男性のナレーションが入るものがありました。そのウィスキーのCMを子供の頃に見て、ウィスキーを飲みながらくつろぐ大人の時間をイメージしていると思いました。CMには映っていませんでしたが、ウィスキーの水割りなんかを片手に持ちながら、萩原朔太郎の詩集をめくっている男の姿を私は想像していました。
 この「帽子の下に顔がある」という言葉は、萩原朔太郎の詩集の中の『蛙の死』という詩から引用しています。この短い詩の終わりの一節が、冒頭に掲げた「月が出た…」なのですが、おそらくイメージとしては次のような感じだと思います。
 丘の上にまん丸い月(満月)がのぼって、その月明かりで丘の上に人(おそらく男)が立っているのがわかったが、その男のかぶっている帽子の下の顔の表情までは、帽子の影で暗くてわからなかった、という感じだと思います。何か神秘的なイメージが感じられます。このように月明かりというのは、意外と神秘的なものなのです。
 ところで、私は一昨日から今日で3日間続けて、月明かりの下で、稲のはぜかけを続けています。本当は、先日の連休中にはぜかけを終わらせることがベストなのです。が、何せ手伝ってくれる人がいなくて、30アール(3反)近くある田んぼの稲刈りとはぜかけを無謀にも一人でやろうとしました。連日の天気の良さで、きゅうりやトマトがまだ収穫できるために、どうしてもまとまった時間が、田んぼの作業にとれません。そこで、きゅうりやトマトの作業が終わった後で、田んぼで作業する頃には、あたりが薄暗くなってしまいました。田んぼの周囲には街灯が一本も無く(当たり前のことですが、田んぼの近くに街灯があると、その光で稲の生育が悪くなります。)、LEDヘッドライトを使わないと真っ暗で何も見えなくなりそうでした。ところが、そう思った瞬間に、あたりがなんとなく見えることに私は気がつきました。私の目が猫の目になったように、周囲の物がよーく見えるようになりました。おかげで、はぜかけをしていた手を止める必要がなくなりました。ふと気がつくと、東の山の上に丸く黄色い月が光っていました。
 つまり私は、この月明かりのおかげで、日が暮れて夜になっても、LEDヘッドライトを使わずに稲のはぜかけ作業を続けることができました。そして、「帽子の下に顔がある」という昔のウィスキーのCMの一節を思い出したというわけです。
 都会では、街灯やネオンの明るさで、月明かりなど気づく暇も機会もないかもしれません。が、だからこそ、そして、今だからこそ、それはそれで貴重な体験なのかもしれません。