「農業は楽しいかい?」

 時々会議もしくは酒の席で、私は地元の60代から70代のおじいさん(その方も農業をやっているのですが)に、「この仕事(農業)は楽しいかい?」と聞かれるときがあります。楽しいと答えるべきか、楽しくないと答えるべきか、そう聞かれるたびに考えてしまいます。私の思うところは決まっており、迷いは無いのですが、どちらに答えても、私の本当の気持ちは相手に伝わらないようです。
 「楽しいです。」と答えると、例えば「こいつは仕事で楽しているな。まだ本当の仕事のつらさや大変さを知らないか、意図してそれらを避けているズルイやつに違いない。」というふうに思われてしまいます。逆に「楽しくないです。」と答えようものなら、例えば「こいつは仕事に対する意欲が無いな。やる気のないやつが、仕事をちゃんとできるはずがない。ちょいと説教してやろうか。」というふうな感じにとられてしまいます。
 『滅私奉公』という言葉があります。戦前の学校教育で修身の時間に教えられた方もいらっしゃると思います。それゆえ、この言葉は古くさく、時代遅れで、嫌いな人も多いと思います。社会や会社組織などの公のために、個人としての考えを捨てて従う、という意味では、良いイメージがありません。私も、『滅私奉公』という言葉が嫌いで、言い訳に使ったこともありませんし、他人から言われると「あなたには、自分の意思というものが無いのか。」と反発してしまいます。
 しかし、です。そんな私でさえも、社会の中で仕事をしてお金をもらうことにおいては、その仕事そのものが『滅私奉公』の精神に支えられていることを認めざるおえません。たとえどんなに好きでやりたかった仕事であっても、結局その仕事をすれば滅私奉公になってしまう、ということが現実なのです。
 「滅私奉公だ。」と言って仕方なく仕事を渋々とやる人を考えてみましょう。誤解のないように、こう考えてみてはどうでしょうか。これをくだけた感じにするならば、「この仕事を(自分が楽しい楽しくないにかかわらず)やるっきゃない。」と言っているのと同じではないでしょうか。
 厳しい言い方をするならば、その仕事が好きでも好きでなくても、楽しくても楽しくなくても、仕事は仕事なのです。例えば、私だって月明かりの下で稲のはぜかけ作業を本当はしたくありません。しかし、その仕事を進めないといずれ大変なことになってしまうので、何としてでもやろうするわけです。個人の意思の尊重は確かに重要ですが、やる気の無い個人やズルばかりしている個人の意思まで尊重するほど、世の中に余裕があるとは考えられません。
 したがって、仕事が楽しいかどうか聞いてきたおじいさんに私は何も答えないことにしました。楽しい楽しくないで仕事をしているのではなく、常に仕事の流れを止めたくないから、やるっきゃないから、仕事をしていることをわかってもらうためです。