私の本業 十月の危機を乗り越えて

 私は米農家ではないし、子供の頃はお米が大嫌いだったので、お米が日本の主食だということが一つの情報操作のように思えて仕方がありませんでした。(全国の米農家さん、ごめんなさい。)でも、ここ5年ほど、きゅうりの栽培のために稲わらが必要なために、田んぼで稲を栽培して、お米を収穫しています。私は、そのお米を自給もしくは直売所に販売しています。
 自分で作って、自分で食べてみると、お米もそんなに悪くないなと思うようになりました。もちろん私は、外国産のお米も小麦粉加工食品(パン、パスタ、即席めんなど)も、安いものをスーパーで買って食べています。私の場合、日本の主食として、国産米に固執することはありません。
 特に今年は、十年に一度と言われる10月の巨大台風に全部のはぜかけを倒されて、壊滅的な打撃を受けました。それをすべて立て直して、たった一人で60アール(六反)の稲をはぜかけしたのと同じ労力を費やしました。
 まさにオール・オア・ナッシング(all or nothing)の状況でした。30アール分の稲のはぜかけが、台風の大雨と暴風にすべて倒れてしまって水に浸かってしまった時は、もうだめだと思いました。今年は一粒もお米が収穫できない。共済にも入っていないし、今年度の農作物の被害届けも申告が締め切られた後なので、はぜかけを手伝ってくれる人は愚か、誰にも助けてもらえない状況でした。でも、超過労働で何とか一人で立て直して、その直後にも秋雨前線の影響で十分なはぜかけ天日干しができませんでしたが、地元の農業機械組合で籾摺りする時に乾燥を入れてもらって(もちろんその分のコストがかかってしまいましたが)、何とか無事に食べられるお米が出来上がりました。
 悪天候により、こんなにまで苦労して、これほどのリスクをかかえて、日本人が米作りをしなければいけないのであれば、外国で作られた安いお米を日本人は受け入れるべきではないのか、とさえ私は思いました。しかし、それは世界の広い視野から見れば、弱気な逃げの考えでしかありませんでした。世界各地の異常気象の中で苦労して、もしくは潜在的なリスクをかかえて頑張っている農業生産者がどれほどいることでしょう。
 よく『強い農業』という言葉が最近言われています。経済的に強いということも一産業として必要かもしれませんが、自然の厳しさに対して強くないと、まず仕事として成り立たないのではないかと思います。
 今回の危機および試練から、私はいくつか学んだことがありました。『秋の収穫祭』というと、今日では商業的な販売促進のためのキャッチフレーズでしかありません。『秋の感謝祭』という言葉も、顧客から見れば、同様なニュアンスしかありません。けれども、自然の厳しい現実から考えてみると、農作物が無事に収穫できたということは、実は重大な、それだけで奇跡的な事実だということだったのです。農作物を収穫できて当たり前、というのではないのです。二十一世紀に生きる私たちは、そのことをつい忘れがちです。これだけ科学技術も、社会経済も発達しているのだから、というふうに安心している反面、実はその意識や感覚は穴だらけで盲点だらけなのかもしれません。
 また、お米に関しても、『日本の主食』という以外にも、誤解があるように思われます。お米の生産の現場を見れば、誰でも疑問に思うことがあります。私がよく人から聞く話は、「一粒のお米でも粗末にしてはいけない。」「子供の頃に、ご飯一粒をこぼしたら、親から横っ面を引っ叩かれた。」という話でした。これらの話に共通した考えは、「お百姓さんが米作りをしなかったら、お前はたった一粒のお米も食べられないのだよ。」という主張でした。
 それでは、お米の生産現場でたった一粒のお米でも無駄にせずに収穫しているかと言えば、そうではない。稲刈りと脱穀の過程で、それをすべて地面から拾い上げることは逆に不可能です。もっとも、それが無に帰すわけではなく、次の年の稲の成長に欠かせない養分になるために土に返ります。稲わらを砕(くだ)いたり、それを燃して炭になったものを土にすき込むのも、同様な目的です。そうしないと、土の中の養分が枯渇して、次の年の稲の生育に支障が起きます。つまり、生産の現場には、生産の現場なりの事情があるのです。
 ここまで話してわかることは、お米の生産者と消費者との間には、それぞれの意識の違いがあるということです。その意識の違いを埋めるために、私は実際の苦労と経験から次のように解釈したいと思います。親から横っ面を引っ叩かれた人は、ご飯一粒をこぼしたことを「行儀の悪さ」や「食べ物を粗末にした」ことを責められた、と考えがちです。しかし、そうではなかったという可能性が強いと思います。ちょっと難しい言葉ですが、「お金で正確に換算できないお百姓さんの労働対価」のことに触れていたと思われます。つまり、「お百姓さんが、どんなに努力しても避けることのできないリスクというものを常に背負っており、そのプレッシャーに打ち勝って無事に出来上がった、そうした魂のこもっている」お米を食べることができる感謝の気持ちを忘れるな、ということだったのだと思います。それは文明であり文化なのだと思います。現代風に言えば、一種の食育だったと言えます。
 そういう『ありがたみ』のない、もしくは感じられないお米であれば、溝(ドブ)に捨てても、どう始末してもいいと思う消費者がいるかもしれません。それでも、金さえ出して買ってくれればいいと思う生産者がいるかもしれません。しかし、そこには、戦争で相手の命を虫けらのごとく殺傷せざるおえなくなるのと同じ論理が働いてしまいます。言っては悪いことかもしれませんが、人間が人間らしい気持ちを失ったら、TPPはもとより、いかなる人間社会の仕組みも存続がいずれ難しくなるのかもしれません。