私のプロフィール 実家になかった物を発見する場所

 私の母の実家や、その親戚の家が長野県長野市に多いことは、おそらく前にも書いたことだと思います。今回は、それだけではなかったということを述べてみたいと思います。少年時代の私は、東京の実家から長野に連れて行かれるたびに、何か新しい物を見つけたり、学んだりしていました。
 以前、善光寺さんの山門で蝉(セミ)を初めてつかんだことを書きました。小学校四年の夏のことだったと思います。その頃は、他にも初めて経験させられたことがありました。
 まず、将棋の遊びというものを、初めて年上の従兄から教えてもらいました。本将棋はもちろんのこと、はさみ将棋回り将棋、将棋崩しなんかを、長野県松代の母の実家で遊んで学びました。また、そこでは初めてカラーテレビなるものを見ました。当時、私の東京の実家ではまだ白黒テレビだったので、長野の親戚の家で『銭形平次』や『柔道一直線』なんかをカラーの映像で観て、本当にびっくりしました。
 中学一年の頃、長野の親戚の家に行って、初めて見たのはハッピーバード(平和鳥)というインテリア玩具でした。これも、私の生まれ育った東京の実家にはなかったものです。ガラスでできた鳥の中に入っていた液体は、エーテルだったそうです。今の若い世代の人がそれを見ると、何でそれが面白いのかわからない、という意見もあるそうです。その頃の私がそれを面白いと思ったかどうかは憶(おぼ)えていませんが、それを「欲しいなあ」と思ったのは事実です。東京の実家へ帰って、間もなくして、お茶の間のテレビの上に、どこからか買ってきたハッピーバードが置かれて、水を飲むようになりました。
 もう一つ、忘れられない思い出がありました。小学生になる前の冬に、私は東京で見たこともなかったほど大量の粉雪が舞う時期に、長野市の母の実家に連れて行かれました。その時、他のいとこ達は、元気に外で遊んでいましたが、なぜか私一人は、東京から持ってきた河田のダイヤブロックで遊んでいたそうです。そのダイヤブロックは、全て同じ形で、赤も黄色も青も透明色の初期バージョンのものでした。しかし、当時の長野県では、それはまだ子供の玩具として知られて普及する前だったようです。それが同じ長野県の東部町の工場で製造されていたにもかかわらず、誰もそのことを知りませんでした。東京からハイカラなおもちゃを持ってきたな、くらいに思われていたようです。
 幼い私は一人で、田舎のコタツにあたって遊んでいました。そして、ついブロックの一つを、コタツの中の煉炭(レンタン)の中へ落としてしまいました。そのたった一つの小さな赤い透明な四角いブロックは、煉炭の炎の中で溶けてねじ曲がってしまいました。それを見て、幼い私は大泣きしてしまいました。それを横でじっと見ていた親戚の伯父さんは、そうか可哀想(かわいそう)にと言って、ダイヤブロックのスペアを買いに、次の日に近所のおもちゃ屋さんに行きました。「ダイヤブロックと言ったら、これしかなかったんだよ。悪いけど、これで我慢してくれな。」と伯父さんは言って、透明色でない鉛筆用のキャップを二つつなげたような形の色とりどりの『ブロックもどき』が200個くらい入った箱を私にくれました。
 私も含めて、まわりの誰もが、それは河田のダイヤブロックをパクった『まがいもの』に違いないと思いました。そんなブロック玩具の偽物でも、長野の田舎の人間にはばれるまいと企(たくら)まれて、田舎のおもちゃ屋で売られていたに違いない、と皆は思っていました。けれども、子供は、たとえそうであっても、それをもらって喜んで遊んでしまうものです。それほど頭が柔らかかったのでしょう。その『まがいもの』で、カーブのある翼とか筒を作って遊んでいました。
 最近、河田のホームページで、『ダイヤブロックの歴史』なるものを拝見して、私は驚くべき発見をしました。実は、あの透明色でない鉛筆用のキャップを二つつなげたような形のブロックは、初期のダイヤブロックのプロトタイプだったそうです。つまり、『まがいもの』どころか、正真正銘の河田のブロックのプロトタイプが、地元のおもちゃ屋さんに売っていた、というのが真実だったというわけです。
 こうしたことに限らず、東京都と長野県とで、私にとっては、比較してみるとまるで異郷の地の異邦人や異文化であるような事柄が他にもあると言えます。それを見つけるたびに、あるいは、その微妙な違いを知るたびに、私にとっては、ある種の刺激とか学びの心とかにつながっているように思われます。