千曲川氾濫のヒミツ

 先日の台風19号の影響で、長野県を流れる千曲川が氾濫し、その堤防の一部が決壊して、その地域住民の多くが甚大な被害を被りました。氾濫した千曲川が運んできた土砂が、ドロドロした泥で、しかも、それが乾くと塵灰(じんばい)となって、地元住民の日常生活に支障をきたしている、とテレビの報道でも伝えられています。

 そうしたことは、私もよく知っていました。私は、私の母の実家が松代にあって、4年に一回くらい帰省する母親に連れて行かれました。その折に、善光寺さんへお参りに行くのですが、バスや車で必ず千曲川犀川(さいがわ)を横切ります。丸い河原の石が転がって澄んだ水が流れる犀川に対して、いつも泥で茶色く濁っている水の流れの千曲川が、私は好きではありませんでした。

 五木ひろしさんの楽曲『千曲川』を聴いてもわかるように、戸倉・上山田温泉あたりの千曲川の普段の水の流れは穏やかです。けれども、ひとたび大雨が降ると、その支流のいくつかから、濁流が一気に流れ込んでて来て、いつ洪水で両岸にあふれ出してもおかしくない川へと変貌してしまいます。

 例えば、現在私の居る上田でも、この千曲川の川東(かわひがし。つまり、東岸の側)に、神川(かんがわ)という支流があって、今回の台風が通り過ぎた影響で、三日三晩、あふれんばかりの濁った泥水による濁流激流が続いていました。この神川といえば、戦国時代に真田家と徳川家が両岸に対峙したことでも有名な川です。現在その上流には、菅平のダムがあって、土砂崩れやダム決壊を防ぐために、多量の放流がされたのかもしれません。

 そもそも、『千曲川』というネーミングからして、多くの人々は疑ってかかるべきだったのかもしれません。「千(通り)に曲がる川」です。その近くに住むことは、そうそう無事で居られるわけがありません。大雨で千曲川が氾濫することは、昔から地元では周知のこと、すなわち常識の一つだったのかもしれません。

 それと同じことは、私の実家のある東京都足立区を流れる荒川と隅田川にも言えると思えます。実は、現在の一級河川であるその荒川は、以前は『荒川放水路』と呼ばれていました。大正時代の古い地図では、その荒川放水路は、人造の運河として掘削機関車により建設中でした。そして、現在の墨田川が、東京(当時は東京府)では自然に蛇行して流れていた河川で、『荒川』と当時は呼ばれていました。荒川すなわち「荒れる川」は、大雨が降る毎に氾濫して、つまりその川筋が蛇のように変化して、当時は甚大な被害を与えていました。まさに、その川の蛇行で引き起こされる水害を防ぐための治水工事が、荒川放水路だったのです。現在の地図を見ても、隅田川の東京都流域の上流には、岩渕水門という所があって、荒川放水路と交わっていることが確認できると思います。先日の台風19号の大雨で、隅田川の沿岸の『隅田公園』のベンチが水没しそうになっていましたが、もしも、岩渕水門や荒川放水路が無かったならば、それだけでは済まされなかったはずです。墨田川流域の治水管理として、もしもその水位が上がるようだったらば、その上流の水を岩渕水門の所で荒川放水路へ流す準備が常にできているのです。

 しかしながら、その荒川放水路の人工的なカーブが想定外の放水量により災いしてしまったことが過去に一度ありました。昭和30年代の伊勢湾台風あたりの大雨洪水により、私の東京の実家から南側にあった土手が決壊して床下浸水を起こしました。私の東京の実家では、一階の畳を二階にすべて退避していました。その後、土手の補強工事や強靭化のための工事が行われ今日に至りますが、新たに下水ポンプ場がそこにできたために、下水逆流の心配も起きています。自治体から公開されたハザードマップによると、そうした原因による家屋水没の可能性が指摘されているそうです。

 それはともかく、千曲川の氾濫について話を戻しましょう。私の母が10代の頃、大雨による千曲川の氾濫が松代の河川敷でありました。それはもとより、堤防の近くにも田畑があって、母の両親がそこへ観に行ったところ、堤防が決壊して農地が水没して大変なことになっていたそうです。彼らは、命かながら帰ってきて無事でした。しかし、どうにもならなかったと、つぶやいていたそうです。

 その時の母の両親の話によると、その田畑は「ねこじまの畑」と呼ばれていて、長野県では珍しく、砂地で肥えている土地でした。過去に千曲川の度々の氾濫で、山の肥沃な土砂が運ばれてきてできた場所だそうでした。昔のことだから、化学肥料も、大量の有機肥料もありません。しかし、そんなものを入れなくても、度重なる千曲川の氾濫で肥えた農地となったのだそうです。そこで米でも野菜でも果樹でも何を栽培しても、よくできた(あるいは、良く実った)そうです。

 その近辺に、松代の清野(きよの)というところが、千曲川の堤防に沿ってありますが、そこも昔から砂地で肥沃な田んぼや畑でした。しかも、河川敷ではありません。私は、4年に一回くらい母に連れられて、東京の上野駅から湯田中行きの電車に乗って、その清野の田園風景を車窓の中から見ていた記憶があります。

 千曲川が流れる長野県の北信地域は、長野オリンピック以降、多くの農地が建物や道路になってしまいました。急激な地域経済の発展のために、それは仕方がなかったことかもしれません。けれども、今回の千曲川の氾濫が、単なる自然災害や水害や治水の問題だけには、どうしても私には思えないのです。昨今の専門家さんが、ネガティブなことばかり言われているのも、私には気に入りません。昨今の議員さんたちが、土地利用のことを口にされるのならば、どうして先人の知恵や過去の歴史を学ばないのかと、私は疑わざるをえません。

 つまり、この自然災害というピンチは、私共庶民が、これまでの日常生活を見直すチャンスでもあるはずなのです。私たちの人間社会に関わることは、災害にあったら(例えば停電などを)復旧することで事足りると思います。しかし、私共が自然に関わる場合は、それだけでは足りないと思います。

 自然現象は、刻一刻と変化しているからです。地球温暖化の例を挙げると、そのことは明白です。例えば、北極の氷山が溶けることに、私たちは地球温暖化の脅威を感じます。もうこれ以上、その氷山を崩壊させてはいけない、と誰もが考えます。しかし、それを元に戻す(つまり、その氷山を復旧する)段になると、一体、何百年かかるのかは、誰にもわかりません。もし仮に地球温暖化の問題が、突然明日解決するとわかっていても、ああして崩れ去った氷山の一つでも復旧できるめどが立つのはいつになるかは、誰にもわからないと思います。自然界では、「一度壊れたものを、そっくり元通りにする」ということを考えること自体、無意味なことが多いのです。

 私は、今回の台風被災や千曲川の氾濫被災に対して、復旧だけではなくて復興を主張させていただきました。これは、絵空事で終わってしまうかもしれませんが、もしやピンチをチャンスに変えたい人が現在生きている長野県民の中に一人でもいるかもしれないと思いつつ、意見を以下に述べておきたいと思います。何かの参考になると良いかもしれません。

 まず、長芋の畑が水びだしになった地域の農家さんは、来年もう一回チャレンジしてみてはどうでしょうか。今年よりも、もっとよく栽培ができるかもしれません。総じて、千曲川の氾濫で運ばれてきた土砂あるいは泥を利用して、肥えた農地を作ることをお勧めします。何を栽培しても良いかもしれませんが、メロンなんかを栽培して大量に売りさばけたら、メロン御殿が建つかもしれません。

 私は、千曲川流域の過去の歴史に思いをはせることにしました。おそらくエジプトのナイル川流域と同じように、肥沃な土地を求めて、昔の人は千曲川流域にたどり着いたのかもしれません。川中島(昔は、『八幡原』と呼びました。)をめぐっての上杉謙信武田信玄の戦いも、ただの領地拡張争いではありませんでした。犀川千曲川に挟まれた八幡原が、肥沃な穀倉地帯であったことがもともとの原因でした。また、真田家が上田や松代を統治したのも、決して彼らの好みの問題ではなかったと思います。それだけ、その土地でよい食べ物がよく栽培できるかということが大切だったと、私には思えてなりません。

 山を切り開いて農地とするよりも、川で運ばれた土砂を利用するほうが効率的であることは言うまでもないことだと思います。そうして、その場所で農業を営む人が増えれば、農業以外の商売をする人も増えて、河川の氾濫はあっても、その川の流域に人が多く集まってきたのだと思います。これが、私が過去の歴史に想像した『スーパーシティ構想』でした。