自称・コメ屋の言い分 第3回

 最近、私は、3年前の秋に収穫したものの、ある理由で売れなくなってしまった大量のおコメを、もみから精米して食べています。いわゆる古古古米です。これは、現在の私の経済状況をある意味反映していると言えます。が、別の意味では、今の仕事をこれからも続けていくための決意(と言うか、ポリシー)を反映しているとも言えます。なぜそんな言いわけをするのかと言いますと、こんな私を「家畜以下じゃないか。」と他人から思われたくないからです。
 今から3年前に、なぜそのおコメが売れなかったのか、その理由をこれから述べましょう。通常おコメは、地元の農協(JA)に出荷して、検査を受けます。ところが、私の場合は、収穫の時期が毎年遅れ気味で、検査の日時に間に合いません。そこで、地元の農業機械組合にもみすりを依頼しています。特にその年は、10月の収穫時期に季節外れの台風が来て、大雨と強風で、はぜかけで天日干しをしていた稲が全部、地面の上で水びだしになってしまいました。一応、国の農業政策では、9月上旬までの災害の被害届けは受け付けてくれますが、10月以降の稲の収穫は、栽培者の自己責任となっているようです。従って、その時の私は、一人で必死になって、倒壊したはぜかけを立て直して、2週間遅れで稲の収穫を終えたのでした。
 ところが、その秋から冬にかけて、そのお米を地元の小さな農産物直売所に出荷したところ、ある一人の年配のオバサンからクレームが上がって来ました。彼女は、店頭でおコメの入った5kgの袋の口をちょっと開けて、中身をチェックしていたのです。そして、私が出荷したおコメに『胴(どう)割れ』が多いことを指摘して、「胴割れが無かったら、おコメ買ってあげるのに…。」と、嫌みったらしく言うのです。当時の私は、そうしたお客さんに対して口答えができませんでした。おコメが胴割れして細かくなってしまっては、いかなる言い訳も通用しないという現実があったからです。たとえそれが、全体のおコメの2割か3割であっても、そうしたお客さんの前では、生産者は無力であることを、その時の私は知りました。私は、その年の直売所へのおコメの出荷を控えるようになってしまい、かなりの量の売れないおコメを、もみの付いたまま貯蔵場所に抱え込むこととなったのです。
 ところが、そのお米をコイン精米所でもみすり精米して、3年ぶりに食べてみました。それを口にする前は、食べられるかどうか不安でした。けれども、ひとくち食べてみて全然問題がないことがわかりました。それもそのはずです。東京生まれで東京育ちの私は、東京の実家で毎日、別段美味しくもない古米や古古米を食べさせられていました。古古古米が、食べ物として傷んでいなければ、食べられないわけがなかったのです。しかも、3年前の検査官のようなオバサンが指摘していたような、おコメの『胴割れ』も見当たりませんでした。あの頃に『胴割れ』していたのは、3年前に収穫したおコメの一部分だったのです。そのことに今さら気づいて、損をした気がしました。3年前に収穫したおコメが何処にも売れないことは、わざわざ言わなくても明らかなことです。でも、私は、例えばそれを家畜のエサにはしたくはないのです。それをするくらいならば、私自身がそれを食べて、飢え死にしないことを選びます。
 その一方で、私は今年も、新しいおコメを収穫しました。その新米をなぜ私は食べないのかと、誰もが疑問に思うことでしょう。そこで、私は答えます。それは、お金を出して買ってくれるお客さんの物になるのです。それを、私が横取りしてはならないのです。
 そんなふうに書くと、さぞかし私がおコメで儲けていると思われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。食べ物が人間の口あるいは胃袋に入るものである限り、その人間の弱みにつけこんで商品価格を吊り上げたりすることには大反対なのです。人間は誰しも、霞(かすみ)を食べて生きていくわけにはいきません。食べ物というものは、いかなる経済価値をも超えて、その価値がお客さんの胃袋の中へ消えていくものなのです。私たち人間の命の源は、実はそこにあるのですが、現代の人間社会は、そんな当たり前のことが理解できていない社会になりつつあると考えられます。だからこそ、私は、ギリギリの企業努力で売り値を上げも下げもせずに、ノーブランドのお米をお客さんに提供することを思いついたのです。
 こうした考え方は、日本の農業協同組合という『団体』(『企業』や『会社』ではありません。)の職員が、もともと持っていた考え方だったと思います。しかし、そのことを知らない、あるいは、お金が無いと一秒たりとも生きていけない都会の人々が多くなるにつれて、農業協同組合という『団体』のそうした理念や使命は、世間一般に理解されず、無条件で否定されてきました。
 しかし、私は、このことが世の中のあらゆる『人の命の問題』と関わっていると考えます。経験的に考えてみても、『食べること』と『生きること』は同じ方向性を持っていると思います。何も食べられなくなった老人が、ほどなく息をひきとることは、私たちが日常よく目にする、その一例と言えましょう。また、最近ニュースに取り上げられている若者の自殺願望にしても、何らかのつながりがあるように思えます。
 しかしながら、こうした問題点について、さらにいろいろと述べていくことは、自称・コメ屋の立場を脱線させてしまうので、この辺でやめておきましょう。