映像の意味するもの その1

 今年の暑い夏も終わって(今日の日中はかなり暑いのですが)、そろそろ怖い話もその存在価値を失いつつあります。そこで、安直ながら、今回のブログのタイトルを『怖い話 その6』から改めて、『映像の意味するもの その1』にしました。今回の内容は、前回の『怖い話 その5』の続きです。
 少し昔の映画である『世にも怪奇な物語』について話を続けていますが、最近HDニューマスター版が出て、驚くほど鮮明な(昔の映画とは思えない)画像でこの映画を見ることができるようになりました。欧州女優コレクションというシリーズのDVDの一枚として、今回はよみがえったそうです。もちろん、それはジェーン・フォンダブリジット・バルドーという有名な女優さんのおかげあり、第三話の悪魔役の少女のおかげではないことは言うまでもありません。そのことは、DVDのパッケージを見てもわかりますが、その少女だけ中途半端に描かれていて、かえって怖い感じがします。
 それはさておき、その第三話『トビー・ダミット』を観ると、いくつかポイントがあることがわかります。私は、それらを『主人公の視点の映像化』『ポーの小説へのこだわり』『ココロが無くても』の三つテーマに分けて述べたいと思います。ちょっと内容が想像のつかないテーマで申し訳ありません。が、『映像の魔術師』と後世呼ばれるようになったフェリーニ監督に、これらのテーマから少しでも興味が沸くだけでもいいことではないかと私は思いました。
 さて早速、この映画の持っている驚くべき特徴の一つについて述べたいと思います。この映画の具体的なシーンに関して、多くの人がネット上でもいろんなことを感想や意見として述べています。感想や意見として、私はそのどれもが意味のあるものであると思いました。しかしながら、まだそれらだけでは十分ではないようにも私には思えました。そこで、私なりに感じたことをなるべくそれらの補足説明になるように述べてみたいと考えました。
 おそらく気づいている人もいると思いますが、フェリーニ監督がただわけがわからない思いつきの映像を直感的に作ったのではないことは事実だと思います。(そう考えるのも、考えないことも、勿論どちらも個人の自由であることを、あらかじめ念のために断っておきます。)
 例えば、トビー・ダミットが出席した授賞式のパーティの場面を皮肉っているのは、フェリーニ監督自身か、それとも主人公のトビー・ダミットか、という問題があります。私は、後者のトビー・ダミットだと思います。つまり、この映画の主人公の目には、こうした授賞式のパーティは退屈で退廃的に映った、ということ自体をフェリーニ監督は映像化して見せているのです。
 その一方で、あの目が見えないベテラン・コメディアンの「片目が猫の目」の男のスピーチに、トビー・ダミットはただ一人悲しげにクククッと笑います。それは、その後の彼自身のスピーチにつながっていて、そのはかない人生の真実に彼が誰よりも深く共感していることがわかります。
 「消えよ、短いろうそくよ。人生は歩く影だ。自分の役が済むと、舞台から消え去る哀れな俳優だ」(日本語字幕の訳)という、シェークスピア劇のセリフの一節は、彼自身の役者人生をダブらせながら、彼自身は人生をどう考えているのかを語らせています。(シェークスピアの劇を格調高くて、理解しづらいと思っている人のために、ちょっと解説しましょう。この一節では、ろうそくが消えたらそのろうそく自体の影が消えてしまう、そのような、人生とははかないもので、役が終わったら舞台から降りなければならない役者に似ている、と言いたいわけです。)
 この映画を見てご存知の通り、この主人公はアルコール依存症の(または、アルコール中毒にかかった)人間です。しかし、普通の人間らしい正しい見方や判断が全くできないわけでは無かったと思います。その点では、『黒猫』の主人公である語り手の『私』と酷似しています。(そういえば、彼もアルコール依存症でした。)
 ところで、この映画の受け手となった私たちのほとんどは、アルコール依存症(もしくは、アルコール中毒)について余り詳しく知りません。テレビや映画などのドラマで、そのために手がブルブル震えて自由が利かない人が出てきますが、それは外に現れた禁断症状の一つに過ぎません。アルコール依存症(もしくは、アルコール中毒)になった人間が、ありふれた日常生活の中で何をどのように見ていて、何をどのように感じているのか、その目線や内面を普通は知ることができません。同じような境遇になりたいとさえ思わないのが普通です。
 そこで、フェリーニ監督は、アルコール依存症(もしくは、アルコール中毒)になった人間の目線や内面を、この映画を観る人にわかってもらおうと、それを映像や音響で構成しようとしたと、私は推測しました。つまり、主人公のトビー・ダミットの姿が直接映される場面以外は、アルコール依存症(もしくは、アルコール中毒)になった人間の視点(即ち、主人公の視点)が映像化していると考えられます。どんなに日常的で普通でありふれた物事でも、もしもアルコール依存症シェークスピア俳優のトビー・ダミットが見たり感じたりしたらば、こんなふうに見えたり感じられたりするのではないかと仮定して構成された映像と音響なのです。トビー・ダミットの体を借りて、見たり感じたりしたものを映像化・音響化しているのです。
 例えば、冒頭の空港のシーンなどを見てもわかるように、何気なく私たちが見ている風景にも、アルコール依存症で意識が不安定な人には、恐怖心と不安感を呼び起こすようなふうに見えたり感じたりするのではないかと思われます。また、途切れ途切れの(断続的な)映像や突然びっくりするような音響がありますが、それも主人公の意識がアルコール依存症のために途切れ途切れになっていることを表現しているように見えます。その一方で、病的な人や怪我をしている人への目線は比較的時間が長く、そうした人たちへの関心が高いことを示しています。また、時々何か色のついたフィルタがかかった映像がありますが、これもまたアルコール依存症で意識がふらついている主人公の視点を表現しています。それとは対照的に、フェラーリをふっ飛ばす主人公の意識と目線は、鮮明な映像で表現されています。
 従って、それらは決して一般人にはわからない、俗に言うフェリーニ・ワールド(フェリーニ独自の世界)などではない、と私は思います。むしろ、明確な意図を持って緻密に構成された映像や音響だと私には感じられました。
 次回は、フェリーニ監督の、ポーの小説へのこだわりがこの映画でどう表現されているかを書いてみたいと思います。