酷評で不評だったアノ映画

 これも、いつかは書いてみたかったテーマだったのですが、なかなか事情が許さなくて、長い間、私のブログ記事で公開できませんでした。書いてはまとまらず、また書いてはまとまらず、そんなことを繰り返して今日に至ります。ところが、今回、新型コロナウィルスの世界的な流行によって、やっとそのアメリカ映画がリアルさを増してきました。今になってやっと、この映画の本当の価値を評価できるようになったと思います。おそらくゾンビ映画よりも、ずっと空想科学的で面白いと思います。お薦(すす)めです。(ここで前もって言っておきますが、私は、宇宙開発者や宇宙研究者の夢や希望にケチをつけるつもりは、少しもありません。危機管理上そうしたことへのリスクには言及しますが、そうしたリスクを背負った上で夢や希望を追い求めることは、人間として立派なことだと思います。したがって、そのことに対しては、批判や警鐘を行う立場に私はありません。悪しからず。)
 本題に戻りましょう。それは、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(原題は"The Thing"。1982年上映)です。私がこの映画のことを知ったのは、テレビの映画ロードショーで同監督の『ニューヨーク1997』を観たついでのことでした。当時は、リドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979年上映)がSFホラーブームを引き起こしていました。また、ほぼ同時期には、スティーブン・スピルバーグ監督の『E.T.』(1982年上映)という映画もありました。『遊星からの物体X』とは違って、両者の映画は共に興行収入の面では大ヒットしていました。
 実は、私は『E.T.』を観ていません。スピルバーグ監督の映画作品は『インディー・ジョーンズ』を観てもわかるように、余りに素晴らしい映像なのですが、かえってそれがアダとなっている側面も感じられます。スピルバーグ監督には失礼かもしれませんが、私はファンタジーが余り好きではないのかもしれません。私の文学的な趣味の問題かもしれませんが、不安におののき、恐怖に直面した人間の危機的状況を、ありのままに知りたいという欲求が強いのかもしれません。
 SFホラーの先駆的映画として、今でも高い評価がされているリドリー・スコット監督の『エイリアン』は、宇宙時代の未来において、何の説明も受けずに会社に雇われた従業員たちが、悪夢の中から現れたような一匹の『完全な有機体』に次々と襲われていきます。空間的に閉鎖された巨大宇宙船の中で、何の命の保障もされずに危険な目にあわされる(つまり、エイリアンに寄生されたり、危険な『運び屋』の業務であることが判明したり、乗組員の一人が実は会社から監視に送り込まれていたアンドロイドだったり)、というスゴいストーリーでした。
 けれども、その斬新な映像作品の中に少々難点がありました。ジョン・カーペンター監督が、『エイリアン』の映像を観て、そのラストシーン近くのエイリアンの着ぐるみの登場にがっかりした、という話はよく知られていると思われます。そのラストシーン近くに至るまでは、人類とは違う地球外生命体の部分的なチラ見せで、その不安と恐怖が映像にあふれていました。ところが、いざ映画のラスト近くになって、そのエイリアンの全身が『着ぐるみ』で映像に現れた瞬間に、「何だ、人間が入っているじゃないか。」とわかって、幻滅してしまう観客もゼロではなかったというのです。
 そこで、『エイリアン』の着ぐるみにがっかりしたジョン・カーペンター監督は、『遊星からの物体X』という映画で、『着ぐるみ』を一切使わない特殊効果に挑戦しました。「地球外生命体が、必ずしも人型の宇宙人や怪物だとは限らないし、それらが人間と等身大とは限らない。」というメッセージを観客側に伝えているという意味で、画期的な映像作品だったと言えます。もしも、この『物体X』が人間社会(civilized areas)に到達した場合、27000時間後(約3年後)には、全人類(entire world population)が感染して同化されてしまう(infected)という、コンピュータによる推計(projection)が劇中で語られたりします。その『物体X』は、犬や人間を襲う時は怪物化するのですが、ハッキリとした外形をつかめない、そのグロテスクさの度合いは、他のSF映画の追従を許さないものでした。そうしたリアル感や恐怖感が、現在でも通用するというところに、同監督の先見の明があったと言えましょう。
 しかし、この映画の公開当初は、(そして、当時の日本でも)評判があまり良くありませんでした。当時の日本での試写会の記事を目にしたことがありますが、映画『エイリアン』と比較して、怪物のデザインが劣悪だという酷評が目立ちました。映画の興行収入も芳(かんば)しくなかったようです。当時学生だった私は、東京都上野の映画館での封切りを楽しみにしていました。そして、上映初日の朝に観に行きましたが、私を含めて5人の男性しか観に来ていませんでした。上映初日の入場記念品として、映画の内容とは関係がない、薄っぺらな無地のノートをもらった記憶があります。
 ところが、その後に映画がビデオ化されると、別の観点からこの『遊星からの物体X』が注目されるようになりました。ホームビデオ化やレンタルビデオ化されると、怪物の見た目のスゴさよりも、それに不安と恐怖を抱く人間たちのジタバタ感に視線が向くようになりました。実際この映画では、そのような人間たちのパニック状態が、手抜きなしに描かれています。この映画作品で描かれる地球外生命体は、UFOに乗って大昔の地球にやって来たのですが、蘇生して不測の事態を巻き起こして、アメリ南極観測基地の隊員たちを危機に落とし入れます。ちなみに、この映画の、海外で使用されたとされるキャッチコピーは、”Man is the warmest place to hide.”(「人間は、最も心地よい棲み家だ。」)だったそうです。
 細胞のレベルで、生物と同化して擬態する、この得体の知れない敵に対して、誰もがエイリアンとなってしまう可能性があって、しかも、誰も(本人さえ)知らないうちにエイリアンとなっている可能性があって、みんなが互いに疑心暗鬼となり人間不信になってしまう。『物体X(the thing)』は、地球上の生物とは全く違う生命体でありながらも、人間や犬などを襲って消化吸収した後で、それらの姿に細胞レベルでなりすまして(ニセモノとして姿を変えて)密(ひそ)かに仲間を増やしていく、という恐怖が描かれます。よって、誰が襲われてエイリアンになってしまったのかは、結局『検査』をしてみないとわからなくなってしまいます。たとえそれが一時的あったとしても、『検査』でエイリアンでないことが証明されないと、人間はみんな不安で仕方がない、などという場面が描かれたりしています。(『検査』をして人間であることが証明されても、その後でエイリアンに襲われてしまえば結局意味がないのですが…。)要するに、そのような不安と恐怖にさいなまれる人間たちのドラマが、この映像作品の価値を格段に上げる結果となりました。
 この映画のラスト近くでは、怪物の正体を現したエイリアンは、ダイナマイトの爆破やそれに伴う火災と大爆発などで悲鳴を上げて粉々に飛び散りました。しかし、そうしてやっつけられたとしても、地球上の生物と同じように死んだかどうかは不明のままです。爆発で吹っ飛んで粉々になったとはいえ、一時的に『不活性化』しただけなのかもしれません。地球上のウィルスと同じように、生物なのかも無生物なのかもハッキリとしないこの『物体X』は、依然として地球内にとどまって、消えないものなのかもしれません。(この映画の原題が、"The Thing"すなわち『もの』を意味するということを思い出しましょう。)

 この映画のラスト近くのシーンで、ひとまず二人の隊員が生き残ったように描かれています。その、マクレディ(この映画の主人公)とチャイルズの、二人の男の会話が続きます。二人とも、相手がエイリアンになってしまったのではないかと、互いに疑っています。(私は、本編の映画作品の字幕を参考にして、そのラストシーンの日本語の意訳を試みました。マクレディをM、チャイルズをCとして、以下にそれを示します。)

C「俺たちゃ、これからどうやって『やつ』をやっつけるのさ。」
M「おそらく、どうすることもできないさ。」
 (少しの間)
C「お前は、俺を『やつ』だと疑っていると思うが…。」
 (チャイルズが「俺はエイリアンじゃない。」と言う前に、マクレディはそれをさえぎって)
M「それを聞いて知ったからといって、お互い何も伝わらないし納得できないさ。」
C「じゃあ、どうする。」
M「どうにもならないし…。少し落ち着いて、その成り行きを見守ろうぜ。」
C「(小さな声で)そうさな。」

 この映画のラストシーンは、不安と恐怖の人間ドラマに一つの答えを示してくれていると、私は思いました。英和辞典には、"wait and see"で「成り行きを見守る」すなわち「静観する」という意味だとあります。したがって、そうした不安と恐怖の果てに、人間ができることは、「少し落ち着いて成り行きを見守る。」すなわち「今ここでちょっと待ち受けてみて(wait here for a little while,)」「何が起きるかを見て理解する。(see what happens.)」ことだというわけです。昨今話題となっている「新型コロナウィルスとの共存」についても、同じようなことが言えると思います。この映画の主人公マクレディの、そのような冷静で謙虚なセリフは、現代の人類の心の有様(ありよう)をいろいろと反省する上で、本当に心にしみる言葉だと思いました。