異国の唄 悲しみのジェットプレイン

 たまたま知ったのですが、昨日か今日がジョン・デンバーさんの命日だそうです。私は、十代の思春期にたまたまFMラジオを聞いていて、彼の音楽を知りました。彼はドイツ系のアメリカ人で、アメリカ合衆国カントリーミュージック系のフォークソング・シンガーソングライターでした。その頃の私は、特に英語が得意というわけでもなくて、彼の唄をただムードとイメージとフィーリングで聴いていました。つまり、彼の唄の歌詞の詳しい内容などは、ほとんど何も知らずに、ただ気持ち良いミュージックとして鑑賞していました。彼の音楽を聴いていると、北米の大自然や田舎の雰囲気が何となくわかる気がしました。
 私よりも上の年代の人たちにとっては、アメリカ合衆国は文明の進んだすごい国で、無条件に尊敬の対象としていた感じがしました。然るに、私が十代の頃にはベトナム戦争などがあって、十九世紀のイギリスから始まりアメリカに引き継がれたプロテスタント社会の絶対的優位に、少しばかり陰(かげ)りが見えてきていた、そういう時代でした。
 洋画でも、『エクソシスト』なんかが流行っていました。悪魔祓(ばら)いをする人をエクソシストと呼びます。日本では、この映画をどう扱っていいのか、当初はよくわからなかったようです。そこで、オカルト・ブームという『恐怖』を売り物にする映画のジャンルを確立したわけです。しかし、この映画の根本的なテーマは違かったのではないのか、と私は疑っています。プロテスタントの社会では、悪魔とか天使とかの存在を認めていません。世の中のもっと実務的な面に力を入れて、経済的な発展を進めてきたわけです。十九世紀のイギリスは、地球上にユニオンジャック(注・イギリスの国旗)のはためかない場所が無いくらいの、経済面と軍事面で国家の隆盛を極めました。また、二十世紀のアメリカ合衆国は、世界の警察と言われるほどの経済的・軍事的な影響を及ぼす大国でした。それは、ひとえにキリスト教プロテスタント社会の優位性が世界的に示された結果であったと思います。その教会で牧師さんは、説教の時間に熱心に政治問題を論じていました。ところが、ベトナム戦争あたりから、その圧倒的な力が揺らいできました。『エクソシスト』という映画では、プロテスタントの牧師さんが、悪魔にとりつかれた少女を救うために、カトリックの司祭さんに助けを求める場面が描かれています。悪魔祓いの儀式は、プロテスタントではできません。悪魔とか天使の存在を認めているカトリックのお坊さんの力がどうしても必要だったのです。私はここに、現代のキリスト教におけるある見方を読み取りました。事実現在の世界を見わたすと、プロテスタントの信者よりもカトリックの信者のほうが圧倒的に多いと言えます。この『エクソシスト』という映画は、根っからの恐怖映画でもオカルト映画でもなかったのです。地球上のプロテスタント社会の勢いのかげりと、カトリック教の世界的復興がこの映画の背景になっていると私は見ています。
 結局何が言いたいのかと申しますと、私はアメリカ合衆国やその国土に対して無条件の敬意を抱いていないということだと思います。北米のグランド・キャニオンはすごいでしょうけれど、長野の県境(けんざかい)の碓井峠から見渡せるグランド・キャニオンみたいな地形とそれほど違わないのではないかと思ったりしています。私は大学時代にアメリカ文学の授業で『タバコ・ロード』とか『ワインズバーグ・オハイオ』とかの近代アメリカ短編小説を読まされましたが、そこに描かれていたのは小さな貧しい農家さんでした。それは、テレビや映画などでよく紹介される、広大な農地を経営する大規模農家さんとは月とスッポンの差がありました。
 ですから、私がジョン・デンバーさんの曲を聴いてイメージしたのも、普通の日差し(sunshine)であったり田舎道(country roads)であったり山(Rocky mountain)であったりしたわけです。日常生活では見たり感じたりすることの出来ない特別な情景ではありませんでした。それくらいジョン・デンバーさんの唄に親しみを私は持っていました。私の場合はそのような意味でアメリカの文化や英語圏の文化の素敵な面を感じていました。
 それらをイメージさせる彼の曲の中で、なぜ『悲しみのジェットプレイン』("Leaving on a Jet Plane")を今回とりあげたのか、その理由をこれから述べましょう。この曲を聴いてまずイメージされるものは、滑走路をテイクオフ、すなわち離陸するジェット機の情景でした。その情景が心に浮かぶおかげで、この曲は日本人にとってなじみやすい曲になっていると思います。英文の歌詞がほとんどわからなくても、"Jet Plane"(小型ジェット機)は容易に聞き取れますから、日本人は誰でもこの曲を聴いて、ジェット機が離陸する情景を思い浮かべることができると思います。
 ジョン・デンバーさんは自家用飛行機の事故で命を落とされました。でも、この曲は実はそのこととは関係ありません。この曲は、ジョン・デンバーさんがシンガーソングライターとして初めてヒットした曲であるとも言われています。しばらく後に、ピーター・ポール&メリーがカバーした曲はベトナム戦争反戦歌になっていました。けれども、この曲は反戦運動のために作られた曲ではもともとなかったのです。ただ別れようとしている相手に「本当は、君と別れて行ってしまいたくはないんだよ。」と心の内でつぶやく唄なのでした。その辺の未練たらたらな部分が、この曲のサビの部分(”kiss me and smile for me”という歌詞以降)に示されています。だから、ムード的には、反戦運動的な重い感じではなく、ジェットプレインに乗って飛んでいくような軽やかさを感じるべきでしょう。その一方で、飛び立つ瞬間の重力(G)のかかり方を"I hate to go"と表現しているととれる所も見逃せません。
 従って、この曲のタイトルを『悲しみの…』にするところに少し違和感が感じられます。英文の歌詞を翻訳してみると、心残りがあって去りがたい、という感じに私には読み取れました。つまり、この曲は悲しみに涙ながらに唄うのではなくて、淡々と歌唱しているうちに「行きたくないんだけれど」とか「去りたくないんだけれど」とぽろっと本音を入れたくなる感じで唄うのが妥当なような気がします。