非科学的だと言われるかもしれませんが…

 私は、石原さとみさんのファンではないので、『さとみロス』にはなりませんでした。しかし、最近、土曜日の夜の『オトナの土ドラ 恐怖新聞』が終わってしまって、『恐怖新聞ロス』になってしまいました。このドラマの原作は、つのだじろうさんの連載漫画『恐怖新聞』でしたが、私は過去に少年雑誌で2、3話読んだことがあります。当時は、それほど興味がありませんでした。今回私が毎週土曜日の夜に視聴していた、そのテレビドラマは中田秀夫監督の作品で、原作を踏まえた続編あるいは新作という感じでした。
 若い女性の主人公が、次々と送られてくる『恐怖新聞』に恐怖して、周囲の人々を巻き込んでしまう、というのが大体の内容でした。しかし、彼女は、その『恐怖新聞』のルーツと、彼女自身の前世との関わりや、大人たちが『恐怖新聞』を金儲けや犯人逮捕、悪人を懲らしめるために利用することなどを知って、考えが変わっていきます…。
 最近のいわゆる『鬼滅ブーム』の影響でしょうか、結局そのテレビドラマの最終話は『鬼』でカタがついてしまいましたが、私の個人的な好みを申し上げますと、ドラマのオープニングの「音楽と人々の悲鳴」が大好きでした。また、映像の作り方にも好感を抱きました。私の感覚では、テレビドラマの映像の1コマ1コマは、それほど恐怖を感じませんでした。けれども、それらをつなげて観ていくと怖い映像だなと感じました。ドラマの最終話が終わって、最後にメインキャストの若い男女二人の俳優さんが、最後まで見ていただきありがとうございます、みたいなことをおっしゃっていましたが、私は「もっと『恐怖新聞』を見たいのに…。」と思っていました。「『恐怖新聞』は一回読むごとに100日寿命が縮まる。」というのがお約束事ですが、そのテレビドラマ自体を観ても100日寿命が縮まるわけではありませんから、安心して私は視聴していました。
 ところで、つのだじろうさんの漫画というと、『恐怖新聞』のほかに『うしろの百太郎』がありました。この作品も、私は2、3話読んだことがあるだけでしたが、『背後霊』とか『守護霊』について知ることができました。私は、その存在を信じているわけではありませんが、それらを見てしまったという幼い頃の記憶があります。以下に、その経験を述べておきましょう。
 0歳の私は、ある晩、家で家族の一人にあやされていました。その大人の誰かと対面していましたが、その誰かの背後に、いるはずのない何かがいるの見てしまったのです。それで私は泣いていたのですが、その家族の誰かは、そのことに気づかずに、私をあやし続けました。後に私の母の話によると、その時の私は、一晩中、泣きやまなかったそうです。そのうち泣きやんだと思ったら、急にぐったりとしてしまったそうです。そこで、私の祖父は、これは何かおかしいというので、私の父と母に、近くの救急病院へ夜中に私を連れていくように命じたそうです。それで、お医者さんに診ていただいたのですが、私の父と母は、そのお医者さんからひどく叱られたのだそうです。もしも、私が、そのまま家で朝を迎えていたならば、私は命を落としていたというのです。
 実は、私は、自家中毒にかかっていたそうなのです。病院で何らかの措置をしていなかったならば、私はこの世に生きてはいなかったのだそうです。私の祖父は、私の父のすぐ上の兄とすぐ下の弟が、同じく自家中毒で幼い命を失ったことをよく覚えていました。なぜ私が自家中毒になったのかは、今でも不明のままです。しかし、あの時の0歳の私が、死の淵をさまよっていたことは事実だったようです。
 このことを、私は、時折思い出すのですが、私をあやしていた家族の誰かの背後に見えた何かが何だったのかは、今でもわかりません。しかし、その何かの存在が、私の命の危機を知らせに姿を現したことは明らかなようです。公の話ではなく、個人的な、私の心の中の話として聞いていただきたいのですが、『背後霊』や『守護霊』といった霊的なものは、人を死に導くものではなく、逆に人を生かすために現れるものなのかもしれません。
 そのようなことは、現代の科学や科学的技術では否定されてしまう考えかもしれません。けれども、そうした非科学的なものまでもとらえてしまう人間の感覚や考え、すなわち、脳の働きを否定することはできないと思います。もちろん、そのようなことを利用した、サギ商法には引っかからないようにしたいものです。ただ、私は、あくまでもそうした個人的な感覚と記憶だけで十分だと考えているわけです。
 おそらく、たとえ『背後霊』や『守護霊』が本当に存在したとしても、この世を生きている私たちに彼らは何もしてくれないかもしれません。私たちは、彼らに対して何も怖れることも期待できることもない、というのが事実なのかもしれません。つまり、私たちは、何か恐怖や不安を与えてくれるものを考案して、それを常に意識していないと、何となく生きてゆけないものなのかもしれません。
 例えば、最近の例で言えば、テレビで知らされる『新型コロナウィルスの東京の新規感染者数』なんかそうだと思います。それがいきなりテレビで知らされなくなったならば、「えっ?何で?どうして?」と誰もが思うと、私は思います。「感染が終息して、メディアが知らせる必要がなくなった。」という理由が、もし仮にできたとしても、私たちのほとんどは納得がいかないかもしれません。そして、『新規感染者数ロス』なるものになってしまうかもしれません。したがって、私は毎日のその数が、100人になろうが200人になろうが300人になろうが心配になりません。その数を心配するのは、専門家さんたちに任せています。