『被爆』への誤解を反省する

 最近たまたま私は、古い国語辞典(卓上版)で、『ひばく』という言葉の意味を知りました。「ひばく【被爆】爆撃されること。」とだけ載っていました。放射線にさらされる意味の被曝(あるいは、被ばく)は載っていませんでした。きっと辞書が古いせいか、あるいは、小学生向けなので、後者は載っていなかったのでしょう。
 ここで、いきなり私の反省ですが、『被爆』という言葉の意味を「爆撃されること。」と、生まれてこのかた一度も思ったことがありませんでした。子供の頃から『被爆者』や『被爆者家族』という言葉を数限りなく耳にしてきましたが、それらは全て「広島や長崎で原子爆弾放射能にさらされて健康被害を被(こうむ)ったり、社会的に差別を受けた人やその家族」あるいは「ビキニ環礁水素爆弾放射能を浴びた漁船の人たち」のことだと思っていました。
 私の誤解はさらに続いて、「放射能の事故で大量の放射能を浴びて(つまり、被ばく)して死亡した」とか、あるいは「原発事故で被ばくした」ということは、「広島長崎で原爆に被爆して犠牲になった人たちと同じ目にあわされた」ことだと思ったり、レントゲンやCTスキャンやMRIラドン温泉なども原理的には同じだから、原子爆弾と同じくらい危険なものだと考えたりしました。手塚治虫さんの『火の鳥』でアイソトープ農場が出てきますが、その敷地内で人間の子供が多量の放射線を浴びて死に至る場面が描かれています。そうしたものを見て、放射能に対する恐怖というものが、私の心の中(うち)に知らず知らず増幅されていたようです。
 ですから、今回「被爆とは、爆撃されること。」という意味を知って、ちょっとイメージの修正を迫られました。「空襲で逃げ回っていた人たちも、被爆者なのだ。」とか「ミサイル攻撃を受けた地域の人たちも、被爆者と言えるのだ。」ということです。したがって、「広島や長崎での被爆者たち」というのは、「広島や長崎で原子爆弾の爆撃により被害を受けた人たち」という意味解釈が正しいということになります。
 『被爆』という言葉が、私の頭の中で「放射能の被ばく」とごっちゃになっていたせいで、いろんな誤解が生じていました。東日本大震災時の福島原発事故は、広島や長崎に落とされた原子爆弾よりも桁違いに放射能汚染があって、世界各国が日本に対する輸入規制をかなり厳しくしたということを思い出します。国内でも、それから数年間「福島県産」というだけでかなりの風評被害が実際にありました。
 その福島原発事故で、テレビを観ていたら、いろいろとわからないことがありました。何とかシーベルトとかシューベルトとかの数値が、関東地方の各地域で観測されていて、危険なのか安全なのか全くわかりませんでした。また、通常の生活レベルで自然放射線量というものがあるにもかかわらず、放射能ゼロという『安心安全の場所』が本当にあるものかどうかということも疑わしかったと思います。とにかく地元から避難した人たちへの差別やいじめがひどかったと思います。
 その一方で、あの頃に、ドイツで原発ゼロを目指して自然エネルギーへの転換を推進しているというニュースを知りました。あの頃の日本では、そうしたドイツの取り組みが絶対的に良くて正しい(すなわち、良いことだらけだ)という風潮がありました。あれから10年ほど経った現在も、日本で相変わらずそういうふうに考えられているかどうかは、少々疑問ですが…。