人類が月へ行くのは簡単ではなかった

 少し以前に、私のブログ記事で、アポロ計画について言及しました。1969年の7月下旬に、人類が月面に第一歩をしるしたアポロ11号の話は、今の若い人たちにもおなじみかと思われます。彼らにとって、『アポロ』という曲を歌ったポルノグラフィティはよく知られていることでしょう。
 当時小学生だった私にとっては、ポルノグラフィティならぬアサヒグラフというB4判の雑誌が全ページカラーで『1969年8・15緊急特別号 人類初の月着陸』なる特集を組んでいて、それを自宅で見ていたという記憶があります。そこには、第二次大戦中にドイツがV2ロケットを開発したことから始まって、ソ連が初めて人工衛星や有人ロケットの打ち上げに成功したことから、アメリカのアポロ11号の乗組員が月から地球へ無事に帰還するまでを、逐一年表で記載されていました。その間には、様々な人工衛星無人探査機や、有人ロケットの成果(および失敗)の記録が年代順に列挙されていました。
 そうした年表を見ればわかることですが、人類が月へ行ったということが、いとも簡単に、ひょっと飛んで行って実現したのではなかったということがわかります。そこには、あらゆるトラブルやリスクにさらされながら、そうしたトラブルやリスクを一つ一つ克服しながら、米ソ共に用心深く宇宙開発競争を進めてきた。そういう長い行程と棘(いばら)の道があったということだと思います。
 見方が違うと批判されそうですが、日本の無人探査機『はやぶさ』は、いろんな困難やトラブルに遭遇したという話があります。けれども、それは決して「たまたまそうなってしまった。」という言葉では片付けられないのではないか、と私には思われるのです。そうした想定外の困難やトラブルに遭遇することは、宇宙開発を行う上では必然的かつ宿命的で、避けることができないのではないか、と思われる点があるのです。原発の小さなミスや事故などでびびっている場合じゃないのかもしれません。宇宙には、水も空気もありません。しかも、地球上では考えられないほどの放射線量にさらされてしまいます。真空だと私たちは何も無い(イメージとして気ままな)世界を想像しますが、実際には、隕石やその欠片(かけら)や細かい宇宙塵(じん)が飛び回っています。それらとの衝突トラブルは、常に不測の事態となってしまいかねません。
 そのような厳しい環境の中で、実験や挑戦を行い、経験および知識を科学的に蓄積した結果、何をどう準備し訓練していけばよいかを決めて段階的に実行していった結果、(いくら「夢がある。」と言っても、関係者からすれば二度とやりたくないかもしれませんが)アポロ11号はあのようなミッションを遂行できたわけです。
 実は、アポロ計画の前には、マーキュリー計画ジェミニ計画という有人宇宙飛行計画が行われ、ランデブーやドッキングや宇宙遊泳などを試み、地球周回軌道を飛行しました。また、レインジャー計画やサーベイヤー計画では、人工衛星もしくは無人探査機をいくつも月に送っていました。月に人工衛星を命中(つまり事実上の衝突と破壊)させたり、もしくは月の周回軌道に乗せて、その軌道上から月面の写真を撮ったりしました。あるいは無人探査機を軟着陸させたり、月面にスコップを刺して、現場の土質(どしつ)を分析器で調べたりもしました。地表の昼夜の温度の差は実際にどれくらいあるのか、あるいは、有害な物質やバクテリアが有りはしないかなども調べられたはずです。そうした下調べを無人人工衛星および探査機で何度も行ない、その結果とデータに基づいて、慎重かつ綿密に準備されて、やっと、有人で飛行探査するアポロ計画は実行されたのです。
 最近、中国では、国威の発揚や軍事を目的として月に無人探査機を送ったと、私は聞いています。いずれ月に中国人が行けるようになることが、かつてのアメリカ合衆国と同じ『大国』の証になるのだ、ということのようです。私は、そのこと自体を批判するつもりは毛頭もありません。がしかし、それは誰もが想像している以上に、しんどいことであり、想定外の困難や災難に直面してばかり、というのが、まぎれもない現実なのではないかと思われるのです。