日本が世界に誇れるもの

 実は、私は本題で、マイクロコンピュータの話をするつもりでいました。ところが、今回の大地震があって、テレビで情報収集していくうちに、いろいろと考えることがありました。今回の記事は、皮肉や風刺や冗談なしで述べたいと思います。もしもそうした皮肉や風刺や冗談にとられる箇所があったとしても、もともとその意図はありませんから無視してください。
 私は、溶接屋の息子として小さい頃から親父の仕事ぶりを身近に見て感じていたことがありました。アセチレンガスの入った鉄の容器(ボンベ)と、酸素ガスの入った鉄の容器(ボンベ)から圧力調整をして、おのおののガスを混合して噴き出すノズル(トーチ)の先に、スパークという道具で着火します。強い炎による溶接の作業をした後で、ノズルを閉じて消火します。その点火か消火のどちらかで、すごい爆発音がしました。ぼんやり近くにいると一瞬つんぼになりました。その一連の作業を見るたびに私は、子供心にえらいことだと思いました。どう見ても危険です。私の親父は、見た目が岡本太郎に似ていましたが、『芸術は爆発だ。』ではなくて『溶接は爆発だ。』と思いました。つまるところ、この世に100%安全だと言い切れる工業技術など無いと私は実感していました。
 水素爆発についてですが、昔はよく身近でもありました。縁日などで風船にボンベから水素を入れる時に爆発したり、屋台の所で、ひもで結んで宙に浮かんでいる沢山の風船に(おそらく誰かのいたずらで)ライターか煙草の火か提灯の火が引火して、大きな爆発につながることがありました。(本当は水素ガスではなく、ヘリウムガスだったかもしれません。)最近では、NHK高校講座化学で、試験管に水素がたまっているかを確認するために、マッチなどの火を近づけると、ポンと小さな爆発音がして水滴ができます。水素ではなくても、ゴミ処理施設の建物内でメタンガス(炭化水素の一種)がたまって、引火して、爆発する例もありました。
 まったくの素人考えで言えば、大きなキノコ雲でも現れない限り、びっくりする必要はないのかもしれません。いろいろ心配はあるとは思いますが、人間が過剰に反応しても物理的な事象が変わるわけではありませんから、何が起こっても、冷静に観察する(経緯を見守る)必要があると思います。
 ところで、私は、長野県農業大学校で農業基礎研修中にりんご農家を目指す30代の二人の男性と出会いました。一人は、解体前の茨城県東海村原発で働いていた元技術者でした。もう一人は、新潟県柏崎原発で働いていた元技術者でした。数年前、原発のことで少しだけ彼らと話をしたことがありました。何を話したかはよく憶えていませんが、二人とも、放射能危険レベルの割と高い場所で働いたことのある元エンジニアでした。
 さらにまた、私は、長野県での就農を目指す以前に、茨城県東海村にある農業法人に、サツマイモの収穫で1ヶ月間研修に行ったことがありました。その農業法人は、動力燃料機構(動燃)のすぐ隣にありました。あの動燃の重大な死亡事故から数年たっていましたが、まさか私はこんなところへ農業研修に行くとは考えていませんでした。日曜日は農作業が休みだったので、歩いて何回か、動燃の表玄関にある博物館に行きました。
 そこでは、放射能放射線)や放射性物質の説明や、原子力発電のしくみやその事業に関連する様々な先端技術の説明がされていました。今まで私が知らなかった原子力の知識や技術が、いっぱいありました。
 例えば、放射能放射性物質は、関連性はありますが同じ物ではありません。放射性物質は、原子爆弾などの爆発や燃焼で塵や灰になります。粒子の大きさは、花粉とも同じくらいの大きさと言えます。もし放射性物質、および、放射性物質を含む化合物を粒子状に細かくして空気中に放出すると、塵や灰やほこりや花粉と同じ振る舞いで広がります。福島の地元の人たちが放射線検査を受けているのは、いわば『放射線を出している花粉』が衣服や体に大量に付着していないか、息で吸い込んで体内に取り込んでいないかをチェックするためのものです。放射線の検出量でチェックしていますが、放射線は体に付いた放射性物質を見つける手段に使われているに過ぎません。検査を受けている地元の人たちの多くは、わけがわからず、こんな簡単な検査で放射能から身を守れるのかとか、ただの気休めに過ぎないのではないかと疑っているかもしれませんが、決して気休めではないことを知ってもらいたいと思います。
 また、よく土砂降りの雨にぬれると、放射能で頭が禿げると言いましたが、それは非科学的な迷信です。放射能として生物に直接影響を与えるその実体は放射線であり、それは物質ではありません。例えば、『黒い雨』という小説を読むと、放射能ではなくて、放射性物質を含んだ塵が雨に混ざって降ったことがわかります。私たちは、これまで一言で放射能という言葉を使ってきましたが、実はX線・アルファー線・ベータ線・ガンマー線などの放射線と、それらを百年単位の長期間にわたって一定量放出し続ける放射性物質(よく知られているウラン・プルトニウムラジウムなどなど)を話の中で放射能という言葉で一緒くたにしてしまい、話がよくわからなくて、原子力放射能に関して正しく理解することをあきらめてしまうことが多かったと思います。
 それでは、なぜ放射線検査に引っかかった『被ばくの疑い』のある人が衣服を脱ぎ、体を洗わなければならないかと言うと、塵にふくまれた放射性物質が体についている(体から至近距離にある)と、そこから常時発する放射線が人間の体を貫通し続けるからだと思います。レントゲンやCTスキャンを短時間に何度も受けて、大量の放射線を浴びる、つまり、大量の放射線に体を貫通されるのと同じになります。毒物と違って、直接放射性物質に触れなくても、携帯するだけでも(つまり至近距離にあるだけで)危険です。放射線は貫通力が強いために、化学物質のように人間の体に残留することはありません。しかし、チェルノブイリの事故の後のように、放射性物質が動植物に混入して、それが食物連鎖で濃縮された食物を人間が食べると、体の中で放射線を大量に出し続けられて、放射線に貫通された細胞が傷つけられたり、細胞内の物質が壊されたりして、ガンが発生しやすくなります。
 短時間に大量に放射線が人間の体を貫通すると、命を落とします。爆弾投下当時の広島や長崎の被爆地は、地上も空気中も放射性物質だらけであったわけで、それを含んだ塵を吸ったり浴びたり、あちこちから大量の放射線が飛んでくるわけですから、そこにいて無事で平気なはずはありえませんでした。放射線放射性物質から、文字通り上下左右前後の全方向に放射状に放出されますから、放射性物質が集まっている地点から離れれば離れるほど、そこからの放射線を浴びる量は減ると言えます。一方、爆心地の中にいることはその逆であり、周りじゅうにある大量の放射性物質から発せられて飛び交っている、大量の放射線を浴びてしまうことになったのです。(私は学者ではありませんから、厳密な説明はできませんが、おおまかにはそういうことだと考えています。「放射線は物質ではない。」などと言う私のような人間は、学者の先生方からしたら「お前に学問の何がわかる。素人は黙っていろ。」とお叱りを受けるかもしれません。しかしながら、今回は、偉い学者の先生と議論をすることが私の目的ではありません。何もわけがわからず、その理由も説明されず、ただ危険だからと言われて避難しなければならない人たちの立場に立てば、無念だからです。日本の学校教育を受けてきたのに、説明されてもわからないだろうと見なされるのは、人として辛いことだからです。)
 福島原発の爆発事故から首都圏の計画停電までのいきさつをテレビのニュースで知って、多くの人々が原子力発電に不安を感じ、計画停電の実施に不満と不便と戸惑いを感じていると思います。首都圏のほとんどの人は、朝どうやって会社や学校に行こうかと心配するので精一杯だったと思いました。危険な原子力発電に電力の供給を頼りたくない、という気持ちもあったかもしれません。しかし、今回の計画停電を被災地への思いやりととる見方があることをテレビで知って、私はすごく感心しました。支援物資を被災地に送ることも確かに大事なことです。でも、まず大切なのは、被災地にいる人たちへの気持ちだと思います。ただの同情ではなくて、生きることを応援する気持ちだと思います。こういう心こそ、日本が世界に誇ってもいいものではないかと思いました。
 そしてまた、もう一つ大事なことがあります。原子力発電に対する日本人の考え方です。原子力は危ない、怖いというイメージばかり先行して、大切なことを忘れようとしています。実は、日本の原子力発電の研究開発および事業は、世界のトップクラスと言われています。そのことを知っている日本国民は多くはありません。しかし、原子力の平和利用に関して、今でも日本は世界から注目されています。しかも、事業として実際に国民に電力供給をしているのです。日本人は、それを当たり前のことのように思っていますが、世界は違います。原子力の危険なエネルギーを抑止力としての軍事目的ではなく、平和のためだけに利用してきたのは、世界で日本だけだったと思います。広島・長崎に原爆を投下したあのアメリカから、視察団がしばしば東海村原発に来ていたそうです。アメリカの原発は、技術的には日本の原発のコピーと言っても、言い過ぎではないかもしれません。
 素晴しい機械を作る力を持っている、あのドイツでさえ、原子力発電の開発をかつて断念したことがありました。新しい原子炉は作らず、古い原子炉の解体を進める国策をとっていました。原子力発電というものの開発やその技術というものが、いかに世界的にも難しいものであったかがわかります。一方、日本は、原子力発電を実用化・事業化するために、国内のあらゆる最先端技術をつぎ込んで集結してきたと思います。しかも、最先端で、世界のどこでもまだ経験したことの無い事態に直面してばかりいます。今の世界でまだ例のないことばかり、福島原発では起こっているのです。
 なのに、ほとんどの日本人は広島・長崎の核爆弾の記憶に恐怖して、原子力そのものを否定しています。原子力は危険だからやめるべきだ、と誰もが心の中で思っていることでしょう。少なくとも、今回の大地震が起こる前までは、日本国民の電力供給を影で支えて、恩恵を与えてくれていたのに、今は誰も味方しないかのような扱いです。
 世界一位でなくてはいけないらしいスーパー・コンピュータも、十分な電力が供給されなければただの箱です。箱物の中にただの箱があっても何の役にも立ちません。今回の計画停電の実施で、少しでも電力の大切さが多くの人々に身にしみてわかることも大切です。そして、無人探査機『はやぶさ』や『あかつき』は応援するのに、福島原発は避けられてしまうことの不公平さを私は感じずにはおれません。『はやぶさ』や『あかつき』よりも、私たち日本人の文化的に豊かな生活を実際に支えてきたのは、福島原発をはじめとする原子力発電だったのではないでしょうか。日本国民の理念・理想がどうであったにしても、現実はそうだったと思います。
 最先端の技術で二重三重に防衛線を張ってもうまくいかず、他の対策をとってもうまくいかず、未曾有の事態が今も福島原発では続いています。未知の事態に原因がつかめないのは、当然のことです。東京電力の技術者や自衛隊が頑張っていることは、国の威信をかけてプレッシャーを背負って頑張っているサッカー選手と同じではないかと私には思えます。しかし、残念なことに日本国民の応援がありません。世界もまた、今回のトラブルに対して厳しい評価を下すことになるかもしれません。それでも、私は、彼らが任務を投げ出さずにまっとうすることを切に願っています。そして、応援します。