共産主義に対する2つの誤解

 共産主義って「個人の私有財産は認めない」んだって?じゃあ、いやだな。というのが、多くの日本人の意見だと思います。また、日本共産党の党員の言っていることは、「非合法」でよくわからない。だから、嫌いだ。というのも、最近の多くの日本人の意見だと思います。私自身も、この2つの意見に対しては、多くの日本人の考えていることがごもっともだと思っています。
 しかし、現代の多くの日本人の政治に対する考え方が、余りに現体制に頼りすぎていることに、私は危機感をおぼえます。いくら日本政府が「原発ゼロ」を目指すと言っても、「原発ゼロ」を求める住民投票を実現するための16万人の署名が、彼らが選んだはずの地方議会によって捻(ひね)りつぶされました。それを見ても、またもや無力感と無関心とあきらめが、日本国民の心に巣食ってしまったことが気になりました。
 私自身は、「原発ゼロ」などという理想は、世界のどこの現実にも合わないし、日本経済を衰退させて、市民生活をさらに荒(すさ)ませるだけなので賛成ではありません。でも、そんな私が仮にそんな市民の側に立って、福島から今も避難せざるおえない人々の味方をするならば、話は違ってきます。どうしても、理に合わないことがあるのです。現在実現できないことを目標に掲(かか)げているからです。企業によくある「努力目標」というやつです。「日本政府が原発ゼロを目指す」ということ自体が、現体制を支持する人たち(私自身も含まれます。)の「腹黒さ」を感じさせます。なぜなら、現体制におんぶしている地方議会や地方自治体が「原発ゼロ」を認めるはずがないことを、誰もがみんな知っていたはずだからです。
 もしも、主権を持っているはずの市民(もしくは国民)がその意思を通したかったのならば、彼らのやり方が民主主義的に余りに稚拙(ちせつ)だったと悟るべきです。もしも、彼らが現体制を支持するつもりならば「原発ゼロ」を主張するべきではありません。ここは我慢して、「原発ゼロ」の主張を撤回するべきです。どうしても「原発ゼロ」の主張を通したいのであれば、現体制に反対する「反体制」の地方議員を地方議会の選挙で投票して、多数当選させなければ体制は変わりません。そうした手続きを踏まずに、いくら文句ばっかし言ったって何も始まりません。現体制を支持する限り、現体制に従わなければならないのは『国民の義務』なのです。
 私は、現代の多くの日本人の政治や法に対する考え方が、おかしいように思えて仕方がありません。ただ批判や不満や愚痴を言っているだけでは、何も変わらない、進まない、決められない。誰か強力なリーダーシップを持っている人がみんなの利益になる方向に決めてくれればいい、発言してくれればいい、と簡単に考えています。でも、それじゃあ、中国共産党のトップのやり方を期待するのと同じじゃないか、と私は思います。こんな国民の考え方では、中国の属国になってもおかしくはありません。主権在民もしくは国民主権に立脚しているはずの日本の民主主義が、実はそうした市民の主権をないがしろにしていることは明らかです。例の右翼・中道・左翼というふうに、いろんな方向性を持つ主張がこの国ではあっていいはずです。それなのに、一つの体制と、その体制内であれこれ批判したり不満をもつ多くの人たちがいるというのは、現在の中国の社会と余り変わらないのではないかと思われます。
 それでも、「中国は共産主義国じゃないか。資本主義国の日本と違うじゃないか。」と言う日本人が多いと思います。でも、本当にそうでしょうか。そのことを私は解説してみたいと思います。そのために、私は冒頭で、共産主義に対して多くの日本人が誤解してきた2つの問題点を挙(あ)げてみたわけです。
 私は、某大学の教養課程で政治学の講義を聴いていました。或る日、そこへ中核派というその大学に本部がある『反体制派』が3、4人で押しかけてきて、授業を妨害しました。中核派のお兄さんたちは、6月だというのに、ヘルメットを被って、顔をタオルで隠して、ジャンパーを着て、軍手に短い鉄パイプを持っていました。講義をしていた先生は、三十代の女性の准教授でした。その日の授業は中断してしまいましたが、次の週の授業から、その女性の先生は、当時の反体制派の代表であった共産主義に関して、講義を始めました。「共産主義とは、そもそもこういうものですよ。」という、長所と短所を授業の中でいろいろと教えてもらいました。内容的には、マルクスの『資本論』に書かれた内容(と言っても、私は『資本論』を読んだことはありません。)に準じていましたが、日本人一般に間違って理解されている点をいろいろと教わりました。
 その一つが、「個人の私有財産を認めない」という考え方なのです。もしそれが本当ならば、貧しい労働者や農民はテレビや自家用車や家財道具を買うことができません。なぜならば、それらは国民の共有物であるからです。そこで、その政治学の先生は、共産主義の特徴の1番目に「個人は私有の財産を認められている。」と黒板に書きました。
 つまり、「有産階級(お金持ち)の私有財産は認められない。」というのが正しい解釈だったのです。有産階級(お金持ち)は、自前で所有する土地や工場や金銭などの資本を持っていて、労働者を雇用することができます。そこからあげた利潤(儲け)の一部を労働者から搾取して、私有財産にしてしまいます。すなわち、その有産階級(お金持ち)の私有財産は、雇った労働者の労働力に由来するものなのです。従って、共産主義国家では、国が有産階級(お金持ち)からその私有財産を奪取します。そして、その富を国の財源にしたり、労働者に分配していました。
 しかるに、この共産主義のやり方自体に欠陥があったと言えます。国(共産党)が、有産階級からその利潤や私有財産を奪ってばかりいると、有産階級が弱小化してしまい、国家の財源も枯渇してしまいます。
 そこで、現代の中国政府では、有産階級(お金持ち)に資本主義経済と同じ権利を認めて、税金を納める方法に転換しています。つまり、中国共産党および中国という国は、私に言わせればもはや共産主義ではないと思います。国による公共事業を行う計画などで、どこかの東アジアのかつての経済大国の真似をするところなど、社会主義的な政策も行うようです。がしかし、一度資本主義経済に染まってしまうと、共産主義には戻れないと思います。先日、中国の反日運動で毛沢東の顔写真のプラカードが登場しましたが、今の中国にとって共産主義など所詮むなしい理想にすぎないのかもしれません。共産主義の基本は、貧富の格差をなくすことにあったと言えます。貧困層へのバラマキ政策を行っている中南米ベネズエラの大統領のほうが、はるかに共産主義がわかっていると言えましょう。
 もう一つの誤解は、共産主義の「非合法」な論法にあります。現行法で解決できない問題に対する、別の解決策を示すのが本来の目的であったのですが、現在の多くの日本人にとっては現行法を否定することにどうしても違和感をおぼえてしまいます。現行法を非合法とすることはできないと考えてしまいます。保守的な考えかもしれませんが、共産党のその考え方は危険な感じがします。私なんかも同様で、日本共産党の考え方が「論理的には」どうしても理解できませんでした。だから、国政選挙でも地方選挙でも、今日まで私は共産党員や共産党に一票も投票したことがありません。東京都知事選で美濃部さんにさえ、私は投票したことがありませんでした。
 共産党が、現行法を非合法的に批判するのは、現行法が現体制によって作られたものであるからです。革命や政権交代などによって国の体制が変われば、現行法も一つ一つ見直さなければなりません。日本国憲法も含めて「法」とは本来そういうものなのです。しかし、そんなことをしていたら現代の日本の場合は膨大な時間がかかります。よって、従来の現行法の大部分を政権が変わっても維持していかなくてはなりません。しかし、それでも、政権交代などによって『法の支配』に関して(国民に迷惑をかけるような)歪(ひず)みが出てしまうのは致し方ないのかもしれません。
 例えば、教科書問題について現体制では、中国や韓国や北朝鮮との対立は避けられません。もしも、日本に左翼思想を支持する団体が無かったら、今ごろ中国や韓国や北朝鮮と消耗戦争を起こしてしまったことでしょう。日本にその気が無くても、相手側からあの手この手で仕掛けてきます。もしも、日本に反軍国主義反帝国主義の考え方が無ければ、明日にでもこれらの隣国と戦闘状態に入ってしまうことでしょう。短期的な戦争では日本は勝てるかもしれませんが、長期的な戦争では日本に勝ち目はありません。このことから、日本がこれらの隣国を敵にまわしてはいけないことを理解できると思います。
 このように見てくるとわかることですが、共産主義は完全な政治思想ではないかもしれません。が、そのような左翼思想に必ずしも頼らなくても、思いきった発想の転換が私たち日本人に求められていることは理解できると思います。それができずに、国内外の問題解決の方法が硬直化してしまうことが、いかに危険なことか理解できると思います。現代の日本はいろんな難しい岐路に立たされている、とマスコミなどでよく言われていますが、私たちが日常の中で見落としている『盲点』も、かなりあるのかもしれません。その盲点の一つとして、今回私は『共産主義』についての一般的な誤解を、考えの一つとして述べてみました。