社会的腐敗と選挙の関係について

 毎度のことで農作業の人手不足で、なかなかこのブログ記事が書けませんでした。また、テレビなどのマスコミからの情報でいろいろと問題意識があったのですが、ここに書いてはいけないようなことも少なからずあって、黙っていることにしました。

 しかし、少し考えが変わりました。昨日、参議院議員通常選挙の投票所へ行って来ました。選挙の投票に行けるくらいならば、このブログ記事を書く余裕くらいはあるはずだ、と気づきました。そこでまず、その選挙の投票に行ったことをネタにして書いてみることにしました。

 誰に投票するかはあらかじめ決めていましたが、比例代表でどの党に投票しようか考えるのを忘れていました。そこで、投票する2、3秒前にエイっと直感で決めてしまいました。一番議席を取れなそうな弱小の党の名前を書いて、投票しました。ちょっと誤字があったかもしれませんから、無効票になったかもしれません。

 そんな私の行為に対して、日本国民の大部分の人たちは「せっかく投票所にまで行って、何てもったいないことをするのだ。」とか「一票の重みが感じられないじゃないか。」とか「結果が反映されない投票をするくらいならば、投票に行かなくてよかったんじゃないか。」とか「それじゃあ、投票に行かない人と結果、同じじゃないか。」と苦言を呈することでしょう。

 しかしながら、私はそうは思いませんでした。なぜならば、自らの意志で選挙の投票に行ったからです。極端な話、投票したい政党が無かったならば、比例代表で「悪党党」と記入してもよかったのです。もちろん、それは無効票になります。

 でも、無効票になる事例は他にもいくつもあります。投票した候補者が落選したり、投票した政党が議席を取れなかったすることは、何度もあります。投票した候補者が当選しても、議員になった途端に辞めてしまう、ということもありました。そんな時、「せっかくあの人に投票したのに…。」と、有権者は誰でもがそう思います。

 しかし、有権者は誰もがそのことを苦にする必要がありません。選挙には、『秘密投票』の原則があって、誰が誰に一票を入れたかは明らかにされません。選挙の結果が出ても、そこで熱くならずに涼しい顔をしていればいいのです。政治なんて、誰がやっても同じならば、誰が当選しようと、その当選者を認めようと認めまいと、それは各人の自由なのです。

 要するに、有権者にとっては、選挙で勝った負けたとか、投票結果が思い通りになったならなかったとかいうことよりも、もっと大事なことがあると思います。今回の参議院議員選挙は、日本国憲法の定める所により定期的に行われるものでした。有権者投票率が下がったということですが、その投票前にいろんな試みがなされたように、私はテレビなどからうかがっています。にもかかわらず、それほど成果が上がらなかったようです。

 私はその道の専門家ではありません。しかし、市民感情として、選挙に投票したくないという思いは理解できます。(テレビで謝罪会見する芸人さんの気持ちよりもよくわかります。)選挙に投票したって何も変わらないし、何も思い通りにはならない。政治に絡む社会問題を気にするのも面倒だ。そんなふうに、選挙に対する有権者の無力感があると思います。

 しかし、それは裏を返せば、有権者は重大な責任を負わなくていいということになります。政治家の誰かに何も期待しなくていいのです。無理して、いろんな政治家の政権公約をネットで調べることも必要ないと思います。誰を選んだらいいか迷うだけです。

 むしろ、有権者が、議員に当選すべき人物を間違えることをお勧めします。そもそも現代は、個人が個性を発揮をすることを重視しすぎます。選挙で投票することに、個性など必要ありません。誰が誰に投票したとわからないのですから、そんなに真面目に考えなくてもいいのです。

 それよりも、むしろ危険なのは、芸人的な会見で上手すぎる話をして、多くの有権者の心を動かしてしまう人物が現れてしまうことです。そういうナチスヒトラー的な人物にダマされないように、有権者は日頃から心しておく必要がありそうです。

  要するに、選挙の持つ役割を、私たち日本国民のほとんどは学校で学んでいなかったことに問題がありそうです。「選挙で国民の真意を問う」というフレーズの意味が、「現政権を継続するか否か」という意味にしか取れないことに、それはよく表わされています。例えば、急に明日から日本の政治が与党一党の独裁になったとしたら、多くの日本国民は違和感を持つと思います。それでは国民主権は名ばかりのものになってしまいます。現在の参議院のように、いろんな立場のいろんな議員や党に選挙で議席が割りふられてこそ、民主主義国家の意味があると言えましょう。与党もまた、選挙の投票によって多数の有権者の支持が明らかにされることによって、決して独裁的な政党ではないということが確かめられるというわけです。

 話変わりますが、『腐敗』という言葉について、私の所見を述べたいと思います。腐敗した社会、腐敗した政治、腐敗した芸能界、等々をこれまで言葉として私は耳にしたことがあります。一般に、この『腐敗』という言葉は「腐った」とか「堕落した」とかという意味で使われています。

 先日私は、天安門広場で昔起きた時の映像をテレビで観ました。その中で「腐敗した政府」という気になる言葉を何度も聞きました。しかし、私はその言葉に違和感がありました。文字通りの意味にとれば、中国中央政府に対して失礼な話です。そこで私は考えました。もともと民主主義というものは欧米由来のものであり、日本人も中国人も、その思想が渡ってきた時に十分消化できなかったと思われます。戦後間もない日本の学校教育で、男女の学生が手をつないでフォークダンスを踊らされて、「これが民主主義だ。」と教えられた、と私の母から聞かされたことがあります。それのどこが民主主義なのか、いまだに私は理解に苦しんでいます。

 おそらく多様性とか、「意見のバラバラなみんなが承認する」という面倒くさい作業が入るということが、民主主義なのではないか、ということに現在の私の考えは落ち着いています。そして、社会的な『腐敗』という言葉の場合、その意味が「腐った」とか「堕落した」という本来の意味ではなくて、民主主義的な立場から見た『腐敗』、すなわち、「少数の黒幕的人物に圧力をかけられていると感じられる窮屈な社会的状況」を意味していると思われます。理屈っぽくなりましたが、目上を気にして忖度(そんたく)をしたり、上司からパワハラを受けたり、といった日常よくあることです。社会的腐敗というと、何か重大な汚点のように感じられるかもしれませんが、実際はもっと日常的で軽いものです。

 例えば、私は子供の頃からずっと何十年も「腐敗した芸能界」という言葉を日常的に周りから聞かされてきました。ですから、私自身は芸能界に入って働きたいと一度も思ったことはありません。人気商売だし、一般人の目から見ると、ある程度それは仕方がないと理解もしています。だから、そこから脱却するために裏方の人のされている苦労は大変だと思います。(これは私の意見ですが、その意味では、吉本興業の岡本社長の言い分もよくわかると思います。)

 さて、選挙の話に戻りますが、「清き一票を」という言葉をよく聞きます。ここまで読んでいただいた人にはわかると思いますが、この言葉の意味も本当は多くの人々に誤解されています。一般的には、「あなたのウソ偽りのない一票で政治を変えてください。」と有権者に訴えている、というふうに理解されています。一方、私の示す新しい解釈ではこうです。「あなたが投票すること、まさにそれ自体が、あなたが民主主義に参加することなのです。そして、民主主義的にみて、日本の政治が腐敗しないことにつながるのです。」と、投票しない有権者に訴えている、とも理解できると思います。つまり、選挙の役割とは、民主主義的にみて、政治を社会的に腐敗させないことにあったのです。これが、今回私が一番言いたかった結論です。