グレーな状況、グレーな質問

 前回の私のブログ記事はやや概要説明となってしまいました。そこで、今回は、より具体的に文系と理系の発想の違いについて述べていきましょう。(話の中心が、やや文系の発想寄りになってしまうことを、前もってお許し願います。)
 最近テレビで『行動変容』とか『新しい生活様式への移行』という言葉を知りました。しかし、そうした言葉を聞いて、どうやってそれを実現したらいいのか困惑している人も多いと思います。特に、文系的な(帰納的な)発想を多くする人にとって、あれもこれも『行動変容』しようとすると、何をどうやってどうすればいいのかを、一つ一つの事実や事例について検討しなければならず、それらが全て矛盾がないように調整や統一をして、全体的な『行動変容』というイメージを獲得しなければならないようです。しかも、一つでもその築き上げた全体イメージに反する事実や事例が見つかると、『行動変容』ができなかったと判断して、その全体の傾向を捨て去って、一つ一つの事実や事例の洗い直しを一から始めなければならないようです。そのような作業にかける労力を何度もおこなわなければならなくなると、「いい加減にしてくれ。」と投げ出したり、ストレスがたまったりします。
 しかし、これは私の意見ですが、『行動変容』とか『新しい生活様式への移行』という言葉で専門家さんたちが求めていることは、そういうことではないと思います。あれもこれも全ての生活行動を変えよとは誰も言っていませんし、全ての生活様式を変革して一新せよとも誰も言ってはいません。しかし、文系的な(帰納的な)発想をする人からすれば、『変容』とか『新しい生活様式』という言葉は「天地がひっくり返るような、完全な変革をしなければならない」というニュアンスにとってしまいがちです。これは問題だなと思い、私は今回も筆をとった次第です。
 専門家の方々や行政の方々がどんなに具体例を示して下さっても、そのような先入観がおそらくできてしまうと、残念ながら元の木阿弥(もくあみ)になりそうな危険(リスク)も出てきそうです。そこで、そうではないのだと、私の具体的体験から説明したいと思います。もう20数年も前のことなのですが、その頃の私はサラリーマンでした。東上野にあった会社に通勤していました。最寄りの駅は、地下鉄日比谷線入谷駅でした。けれども、通勤電車は毎日満員電車でした。それまでの私はぎゅうぎゅう詰めの車内がイヤで仕方がありませんでした。何年間も我慢をしていたのですが、不意に女性の体に手が触れて、痴漢と間違えられはしないかとビクビクしていました。
 ところが、ある時、自宅の前の停留場にとまっている浅草行きの都営バスに気がつきました。電車で行くよりも30分早目に自宅を出て、そのバスに乗れば、同じ時間に東上野の会社に出勤できることを発見しました。道路の交通状態に左右されて、バスは地下鉄よりも、出勤に要する時間が不安定になりがちでしたが、満員電車のリスクよりも出勤時の遅刻リスクの方を受け入れることにしました。会社に遅刻しても、せいぜい10分か20分くらいの時間給を引かれるだけだと判断したわけです。電車の定期券の代わりに、バスの定期券を購入するようになりました。そうした行動変容のおかげで、地下鉄サリン事件に巻き込まれることが幸運にも避けられました。(あの日は、バスが入谷交差点の手前で一時ストップしましたが、地下鉄日比谷線の地上口近くにガスマスクと防護服の人たちが複数立っていたのを見てびっくりしたことを、私は今でもよく憶えています。)
 そこで、私は思うのですが、少しだけ発想を変えるだけで誰でも行動変容できて、新しい生活様式への移行もたやすくできると思うのです。すなわち、普段何気なしにやっていたことを、ちょっとだけチェンジしてみるだけでいいのです。帰宅してすぐ、何とはなしに手を洗ってみて、「これって、もしかして『行動変容』じゃないかな。」って軽く考えてみるとよいと思います。また、例えば家族4人みんなでスーパーマーケットに出かけていたことを変えてみて、大人の代表者一人と連れの一人を家族から選抜して、二人だけで出かけるとかすれば、従来とは違う『新しい生活様式への移行』をしたんだなと感じることができると思います。
 そのように「その場で気がついたら、ちょっとだけ生活上の工夫をしてみる」ということが肝心なのです。『行動変容』とか『新しい生活様式』とかいう言葉は、あくまでも原則であり、現実の世界でどのように行動しようかと迷った時に、よりどころにする言葉とすればよいのです。「これってそういうことだよね。」と現状にあわせて、ちょっとばかり言葉の一人歩きをさせても、いっこうに構わないと思います。一番大切なのは、白か黒か判断できないグレーな状況で、自ら「確からしい」判断ができるようになることなのです。誰が見ても白か黒かがわかっていることは、そう簡単には変えられません。やって良いことと悪いことを天秤にかけて、いちいち迷っていることは、結局「下手な考え、休むに似たり。」です。
 
 ところで、ある日のこと、多くの主婦が視聴しそうな情報番組を私はテレビで観ていました。すると、新型コロナウィルスに関する専門家さんへの質問コーナーが始まりました。おそらく一般の主婦からの多くの質問が来て、それにお医者さんなどの専門家さんが回答するという形式の、番組コーナーでした。質問の内容をいくつか聞いていると、ある傾向に私は気がつきました。いずれも、一つ一つの細かな事実や事例についての質問だということでした。基本的でおおまかな内容の質問だと、専門家さんに原則的な知識に基づいて白黒はっきりとした回答をされてしまいます。そこで、なるべく複雑で現実的な事例に基づいて、なるべく白黒判断がつけがたい、グレーな内容の質問が多いように、私には感じられました。
 例えば、その中の一つを示しましょう。「新型コロナウィルスは、下痢の症状を起こしますか。」という質問がありました。確かに、下痢の症状が必ずあるかは、症例はあるものの、現在症例を積み重ねている最中であり、まだ白黒はっきりと判断ができていません。つまり、まだ医学的知識として確立していない、グレーな内容の質問です。しかし、専門家のお医者さんは、ちゃんと回答してくれました。「下痢はある。」という回答でした。質問側(おそらく、文系的発想の側)は、いろんな複雑な知識や事実によって、新型コロナウィルスの感染による下痢症状がありうるのか、それとも、下痢症状があれば新型コロナウィルス感染症になったとわかるのか、などといろいろと頭の中で考えて、そのようなちょっとやそっとでは白か黒かの判断がつかないグレーな質問をしたのだと、想像されます。それに対して、回答側(おそらく、理系的発想の側)は、現在までにわかっている、症例の積み重ねと新型コロナウィルス自体の知識から、「下痢はある。」という妥当な答えを導き出したと、これも想像されました。「下痢があったら、新型コロナウィルス感染症だ。」とか「新型コロナウィルス感染症になったら、必ず下痢になる。」とは、お医者さんは回答していないことに注目していただきたいと思います。「新型コロナウィルス感染症で、下痢の症状を起こす人もいる。」という意味だと私は思いました。
 さらに、私は曲がりなりにも考えてみました。この病原体は、胃の中に入ると、そこから分泌される胃酸によって、基本的には死滅します。そして、その死骸が小腸と大腸を通って、吸収されたり排出されたりします。しかし、胃酸が十分にかからなかったり、水を飲み過ぎてその酸が薄められた状態だと、病原体が死滅せずに生き残って、胃腸の消化器官に悪さをして炎症などを引き起こします。すなわち、腹痛を起こして、下痢症状になると考えられます。また、消化器官にもともと炎症や出血の箇所がある場合に、病原体がそこに接触して腹痛を起こして、それも下痢症状になると考えられます。よって、「人によっては、下痢はある。」と言えるわけです。お医者さんの回答が、的確であることが確かめられると思います。
 
 おまけに、もう一つだけ話題を提供いたしましょう。私事(わたくしごと)ですが、これもまたある日の夜に、ニュース情報番組を観ていた時の話です。ある女性アナウンサーや男性のスポーツ選手が「みんなで一緒にこの難局を乗り切りましょう。」とそれぞれのコーナーで発言していました。それを私は何気なく観ていたのですが、ふと、次のような疑問が浮かびました。「え?どんな難局をどういうふうに乗り越えるのかな?」と、私はつい思ってしまったのです。
 そういえば、以前にも同じようなことがあったような気がいます。(そういう言い方は文系的な発想かもしれませんが…。)選挙の投票時期にたまたまテレビを観ていたところ、「みんなで今度投票する選挙の候補者について話せたらいいね。」とか「みんなで一緒に選挙に行きましょう。」などと、テレビで話す人がいるのを見つけました。私は何だかよくわからず、「あれっ?」と思いました。そうした人たちの発言が正しいか正しくないかは別として、何か変な感じが私にはしたのです。投票をする場所へ行くとわかりますが、一人ずつ整理券をチェックされて、個人ごとに間仕切りされた場所で投票用紙に記入して、個人の責任で一人ずつそれを投票箱に入れていきます。そうした『個人的』な状況が、「誰に投票したらいいかをみんなで一緒に話し合う。」とか「みんなで一緒に選挙に投票しに行く。」という主張やメッセージとマッチしていないと、ある意味へそ曲がりな私は感じていました。
 実は、私は文系出身の人間であるにもかかわらず、大学時代から文系らしからぬ生活をしていました。私の同級生はあまり授業に出てきていませんでした。その一方、私はその4年間に一度も授業をさぼったことがありませんでした。皆勤賞で、まるで理系の学生のように律義で細かい性格でした。同級生に頼まれて、授業でとっていたノートを見せたことはありましたが、逆に私から同級生にノートを見せてもらったことは一度もありませんでした。また、とある授業中に、同級生と討論する機会がありました。彼らの多くは全体のムードを大切にして話を進めていきます。一方、私は(刑事ドラマの観過ぎかもしれませんが)一つ一つの物証や実証に基づいて、話を進めていたようです。同じテーマを扱っても、見方が違いますから、意見が対立することが多かったと思います。
 要するに、私は文系の学生ではあったけれども、アウトローでした。当時H大学の公開講座で、コンピュータ実習や博物館学などの授業を受けに行くと、たまたま理系の講師や先生と出会いました。私は、そうした理系の講師や先生の授業が、どういうわけか好きで、授業時間が延びたりしても、結構熱心に授業を拝聴していました。
 ここまで、ざっと私の略歴の一部を述べてみましたが、きっと皆さんの多くは「『同じ文系の貉(むじな)』だと(私自身が)言っていたくせに…
。この嘘つきの、裏切り者。」と思われていることでしょう。事実、私があの女性アナウンサーや男性スポーツ選手と同じことを言おうとするならば「みんなが自粛をしてこの難局を乗り切ることが必要だ。」などと主張し表現してしまうと思います。きっとそれを聞いた大衆のほとんどは、「何か角(かど)が立つような、偉そうで冷たそうなイメージがある。」と私に対して感じてしまうことでしょう。そして、「ムードも何も無くて、そっけない。」と多くの人から批難(ひなん)を浴びることでしょう。何らかの前向きなムードやイメージを伴わない公共メッセージというものは、文系的な発想を持つ多くの人々の心には響かず、その本意は伝わりづらいものです。
 それでは、このへんで問題の種明かしをいたしましょう。前述の「みんなで一緒にこの苦難を乗り切りましょう。」とか「みんなで一緒に選挙に投票しに行きましょう。」というメッセージが伝えようとしている真意を、私はつかんでいませんでした。それゆえの誤解だったのです。つまり、その真意すなわち要点は「何をどうするか。」ということを具体的に伝えることではありません。そのメッセージが伝えたい要点は、実はそんなことではなくて、そういうムードをみんなが持つことが大切で、つまり、その「難局をみんなで乗り切ろう」という『前向きなムード』のことを言っているにすぎません。要するに、そういうふうなムードが大切だということを示しているにすぎなかったです。
 この言わば「もやっ」としたムードこそが、文系的な発想にとっては大事なのです。その背景となる「何をどうする」かは暗黙の了解であって、多くの場合はっきりとした明確な言葉や数字や数値になってはいません。それは依然として、グレーな状況のままなのかもしれません。にもかかわらず、大事なことは、みんながみんな、わかった気になっているということです。実はこれが、民衆の結集した力の正体なのです。それを何かに例えて言えば、文学作品としての深刻なイメージの『レ・ミゼラブル』というよりも、ミュージカル芸術作品としての力強いイメージの『レ・ミゼラブル』というようなものでしょう。(注・昔『ああ無情』という邦題で知られていたこの文学作品のタイトル『レ・ミゼラブル』とは、フランス語で「哀れな人々」という意味です。ミュージカルの「明るく前向き」な雰囲気・ムードとは裏腹に、もともとは、そのような意味の言葉であることを、お忘れなく。)